Lost ParadiseⅡ 4(スザルル)




 これが「幸せ」というものなのだろうか。
 どうしようもないほどの安心感と共に、胸が詰まるような、ぎゅっと締め付けられるような甘苦しい想いが込み上げる。
 背に回していいものかと迷う腕をスザクの腰へと回し、陶然と瞼を落としたまま両手を組んでいると、ぴったりと合わせられた胸越しに心臓の鼓動が伝わってきた。
 聴覚へと侵食する衣擦れの音や密やかな吐息。
 離れなければと思うのに、その全てに意識を掻き乱されて碌に抗えない。
「ルルーシュ」
「はい……」
「キスしていい?」
「――――」
「……するよ?」 
「――っ、」
 確認というより、寧ろ宣告にも等しい台詞の直後、顎を捕らえてきた手に素早く上向かされ、あっという間に唇を塞がれてしまう。
 焦点が合わないほど間近に迫った顔。幼い作りとは裏腹な、野性味を帯びた表情。
 目を閉じていても、やはり整っている。今日登校すれば、きっと盛大に騒がれることだろう。――そう思うや否や、胸にズキリと痛みが走った。
 嫌な気分だ。
 もう何度目かの疼痛に、俺は顔を歪めた。……スザクは俺以外の人と、どんな風に接するんだろう。俺は今日から、スザクが別の誰かと親しくする姿を見なければならないのか。
 この人と俺は身分が違う。ずっと一緒に居られる相手ではない。いつか、遠く引き離される日が来てしまう。
 だからせめて、俺と一緒に居る間だけは、他の誰でもない俺のことだけを見ていて欲しい……。
 閉じた唇を軽く触れ合わせるだけのキスが続いた。啄ばんでは離れていくそのやり方では到底物足りない。
 もっと耽溺してしまいたいのに、俺の頭の中は冷えた思考へと傾いていくばかりだった。腰に回していた手を滑らせて背中にしがみ付くと、スザクもそれに応えるかのように腕の力を強めてくる。
 降り続いていた口付けが止み、暫くの間、二人無言で抱きしめ合っていた。
 触れ合えば触れ合うほど飢えていく。いっそ、誰も入ってこられない二人だけの世界に行ってしまいたい。
 誰もこの人に触れないでくれ。俺たちの間に割り込まないでくれ。
 ……そしてスザクも、決して俺以外の誰かを選んだりしないで欲しい――。
 貪婪な自分自身の心に、俺は本気で慄いた。一体今の今までどこにこんな激情が潜んでいたのだろう。
 俺はこんなに独占欲の強い性格だっただろうか。自分でも疑問に思えるほど際限が無い。
 黙ったまま肩に凭れ掛かっていると、スザクが僅かに身じろいだ。開いた隙間に一歩引きかけたところで腕の力が強くなり、おもむろに伸びてきた手にくい、と額を押されて喉が反る。
 再び寄せられてきた唇に導かれるまま、俺は瞼を閉じた。
 羽根先を触れ合わせるような互いの息遣い。押し当てられる唇の柔らかさ。
 汁の滴る熟れた果実になって、スザクに食べられているみたいだ。
 二度、三度と繰り返されるごとに吸い付く強さは増していき、やがて、そっと遠ざかっていく気配に「もう終わりか」と残念に思う。
 うっすらと目を開けてスザクを見ると、色味を増した翡翠がじっと俺を見下ろしていた。
 何かを訴えかけるような鋭い視線。瞳の奥に立ち昇る、昏いゆらめき。
「……?」
 陽炎にも似た揺らぎを目の当たりにして、本能的に身体が竦んだ。据わったスザクの目がどことなく苛立っているように見えて、血の気が下がる。
 困惑した俺は、見間違いかと数回瞬いた。――ところが。
「目、閉じて」
 短く呟いたスザクの掌が、スッと目元に降りてくる。
「!?」
 瞼の上から目頭を覆い隠され、突如として翳る視界。うろたえる俺に構わず、スザクは強制的に俺の視野を封印した。
「――ぅ、んっ!?」
 続いて、考えるいとまも与えられぬまま、唐突に深く口付けられて呼吸が止まった。俺の瞼を押さえていたスザクの手が項へと回され、頭を固定するようにぐっと力を込めて押さえつけてくる。
 目を瞑った俺が荒々しく割り込む舌を受け入れようと唇を開けば、するりと絡んでくる舌に何もかも奪い尽くす勢いできつく吸い上げられ、脳の芯からぐずぐずに溶かされてしまいそうなほど強烈な痺れが腰に走った。
「んんっ……!」
 耳を塞ぎたくなるほど甘ったるい声が喉から漏れる。――自分の声なのに、自分のものではないような。
 今のは何だったんだろう。そう思うのに、角度を変えて貪ってくる嵐のようなキスに飲み込まれ、徐々に意識が霞んでいく。
 熱くて、甘くて――本気で頭がおかしくなりそうだ。
「……っ、は……」
 解放されると同時に、がくんと膝が折れた。
 力の抜けた俺の体を片腕で支えながら、スザクが苦笑している。
「大丈夫?」
「そう……見えますか?」
 つい出てしまった軽口に、スザクが意外そうに眉を上げながら笑みを深めた。
「それだけ言えるなら平気だろ。……ほら、立って? そろそろ朝ごはん食べよう」
 俺の背中をポンと叩いてからくるりと背を向けたスザクは、そのままスタスタと食卓の方へと向かっていく。
 まだ煩く跳ね続ける胸を押さえたまま、俺は溜息混じりに離れていく背を見送った。
 情熱的なのか素っ気無いのか、よく解らない人だ。……それに、何だったんだろう。さっきの目は。
 不可解ではあるものの、わざわざ問いただす訳にもいかない。気のせいだろうと思いたいが、何か嫌な感じのする目だったような――。一瞬のことで、すぐ視界を塞がれてしまったので解らない。
 スザクの態度に不審な点は見られなかった。強いて言えば、この素っ気無さだろうか。
 でも、さっきの目つきと関連しているなどと考えるのは、さすがに少々突飛でこじつけめいた発想かもしれない。
 優しい人であることは間違いないけれど、スザクは時々こうしてあっさり引いてくる。
 飴と鞭を一時に与えられる感覚。でなければ、重いだろうと力を込めて持ち上げた荷物が軽かった時のようだ。精一杯身構えていた分、肩透かしを食らった反動は大きい。
 そしてスザクは、こちらが気を抜いたその一瞬を見定めたかのように不意打ちしてくるのだった。
 たった今されたことにしてもそうだ。意図的なのか無意識なのかは知らないが、俺は毎回その手管に翻弄され続けているような気がする。
 多分経験値が違うのだろう。同い年にしてはどうも早熟で、いささか老成し過ぎているようにさえ思える。
 こういった態度をひっくるめて「余裕」というのかもしれないが、たった今施されたキス一つ取ってみても、スザクはとにかく全てにおいて「慣れている」ように思えた。
 椅子を引きながらチラリとこちらを伺う眦はすまなそうに下げられていて、多少照れ臭そうに映る。少なくともその表情を見ている限りでは、あんな大胆なことを仕掛けてきた人物とはとても思えない。
 自分から煽ってきたくせに、申し訳無さそうにするなんて何だかずるい。
 少しだけ憎らしくなってきた俺が不満げに眉を寄せると、シャイで大人しそうだった笑顔は、たちまち不敵かつ挑戦的なものへと変化する。
 ――そういう顔をすると、酷くタチの悪い男のようだ。
 スザクが時折見せる二面性。ひやりとさせられる瞬間だった。
 癖が強く、アクも強い。……しかし、それでもスザクに抱く印象の良さは不思議と変わらなかった。
 恋とはそういうものなんだろうか。根拠を求められても返答に窮する絶対的な信頼。それは、心の奥底に深く根ざした樹木の如く、頑として揺るがない。
 けれど、切り替わった空気に名残惜しさと安堵の両方を覚える反面、やはり不安になってくる。
 どう見ても、異性に不足している感は無い。それなのに、スザクは何故、同性の俺を……?
 浴室で考えていたあれこれが一気に蘇り、また嫌な気分に陥った。
 惚れてしまっている以上、悩んでみても仕方がないと解ってはいる。……でも、そう思えば思うほど、より不安は増していくばかりだった。
「何難しい顔してるんだ? 早くおいで」
 シンクに手を付いたまま突っ立っている俺に痺れを切らしたのか、スザクはグラスになみなみとミルクを注ぎながら急かしてくる。
「早く食べないと、遅刻しちゃうよ」
 スザクは、朝はミルク派なのか。
 オレンジジュースではなくミルクを選んだスザクに「俺と同じだ」と思いながら、のろのろと席に着く。
 すると、腰を下ろした直後、そのグラスはスザクの前ではなく、コトリと俺の前に置かれた。
「はい、飲んで」
「――――」
 びっくりしすぎて思考が途切れてしまった。
 至極当然のことのように促してくるスザクの顔とグラスとを交互に見遣ってから、俺はおそるおそるスザクへと問いかける。
「……俺の?」
「うん」
「よく、解りましたね」
「何が?」
「俺、朝はミルクか紅茶派なんです」
 今朝はたまたま淹れる時間が無くて用意出来なかったのだが、習慣としてはそうだ。腹に何も入れたくない時でも、一応これだけ飲んでおけば昼までには持つ。
 まじまじとスザクの顔を見つめていた俺に、スザクは「そう」と言いながらふわりと笑った。
「昨夜、アルコール飲んでただろ? まずはこれでも飲んで、お腹労わって?」
「…………」
 そういう意味か。
 穏やかな口調に一応納得する。一瞬「どうして知ってるんだ?」なんて思ってしまった自分に拍子抜けする思いだった。
「胃に来るほど沢山飲んでませんよ」
「いいから」
 ……強引だ。しかも、何故か逆らえない。そして、それが嫌じゃないから尚困る。
 有無を言わせぬ口調に押されて、俺は渋々グラスを口に運んだ。冷たいミルクが食道を通り抜け、動き始めた胃袋が今まで感じなかった空腹をようやく訴えてくる。
 飲み終えてから一息つき、テーブルにグラスを置いたところでスザクと目が合った。……どうやら見られていたらしい。
 と、そこで、何故か寂しげに瞳を細めているスザクの表情に目が釘付けになる。
 遠いどこかへと思いを馳せるような。そして、もう二度と還らない何かを懐かしんでいるかのような。
 ――寂寥。哀惜。
 ふと、そんな言葉が頭を過ぎった。
 ただ見ているだけで胸が痛くなるほど切ない微笑みに、喉が詰まる。
 ――どうして、そんな顔をして俺を見る……?
 問いかけようとした俺が言葉を発する前に、スザクはすっと瞼を伏せた。
「いただきます」
 何事も無かったかのように一言告げてから食事を始めるスザクの姿は、ほんの束の間、世界から切り離された一枚の絵画となった。
 急激に時の流れが遅くなり、音という音が遠ざかっていく。
 まだテレビでしか彼の姿を見られなかった頃のことを、俺は唐突に思い出した。
 現実味の失せた世界の中で、ゆっくりと閉じていく心。……いけない。でも―――弾き出されたのは、多分俺の方だ。
 鴨肉にナイフを入れるスザクの手元を、俺は出来の悪い映画を傍観する心地でぼんやりと眺めていた。
 ……今、スザクは、誰を見ていたんだ?
 途端、水面に落とした一滴のインクの如く、胸にじわりと広がる黒い思い。
 確信があった。直感と言い換えてもいいかもしれない。
 スザクは、俺を通して、別の誰かを見ている。
 重ねられている。俺以外の誰か……おそらく、例の『友達』に。
 堂々巡りだと知っていながら、またも留まることなく疑問が噴き出した。
 憎んでいるんじゃ、なかったのか……? 少なくとも、憎悪していると言った者の顔つきではない。今の表情は。
 惑う心の片隅で、初めてスザクと身体を重ねた時の会話が蘇った。
『愛の反対は無関心、って言っただろ』
『はい』
『……なら、憎しみの反対って何なんだ?』
『それは、慈しみです』
 喩えて言うなら――そう。
『慈しみという言葉の意味は、慈愛です』
「――――」
 立て続けに、昨夜交わしたやり取りまでもが走馬灯の如く駆け抜けていく。
『誰よりもよく知っていると思っていたよ、彼のこと。幼い頃からずっと、この年になってからも――裏切られるまでは』
『もう戻れないんですか? その人とは』
『そうだな。やり直すことは出来ない。俺も彼も』
 ――間違いない。
 スザクは惜しんでいる。今も。『大切な友達』との記憶を。
 幼い頃からということは、長い付き合いだったのだろう。幼馴染みとして、また、気の置けない親友として誰よりも近くで。
 父親が早逝し、どことなく家族の縁が薄い印象のあるスザク。あるいは、彼にとっては血の繋がりよりも濃い存在だったのかもしれない。
 具体的に、どこがどう似ているというのだろう。顔貌か、性格か、それとも仕草や表情か……それとも、もっと複合的な要素が絡み合って、俺とその『友達』を似通った者として見せているのだろうか。
 たとえば癖や習慣等、俺自身が意識していない部分が似ている場合だってあるだろう。
 だが、それが俺を選んだ理由だというのなら、辻褄が合わない。
 スザクは初対面で『君がいい』と言ったのだ。あの時点からスザクの中で過去との邂逅が始まっていたというのなら、俺がいいと言った理由は外見に纏わるものでなければおかしい。
 それに、癖や習慣まで似ているということは、つまり、生活の仕方、ひいては俺の人となりそのものに重なる点があるということ……。
 ――馬鹿な。そこまで都合のいい偶然の一致など有り得ない。第一、そんな細かい部分など、一目見ただけで解ったりするものか。消去法でその線は消える。
 スザクと俺がこういう関係に至ったのも、互いの間に深い理解があったからだ。一瞬で全てを解り合えうことが出来た――そう思えるほどの。
 惹かれ合う何かを感じ、在るべき所に収まるかのように、自然と魂が寄り添った。……その感覚だけだ。今の俺とスザクとを繋ぐ唯一の糸は。
 スザクの『友達』について何も知らない俺には、似ている部分がどこなのかさえ推し量ることが出来ない。
 よりにもよって、わざわざ憎い友達に似ている俺を選ぶ理由がどこにあるのか。
 俺を相手にしようとする、スザクの真意が掴めなかった。重ねていないと言われても、理屈では説明し難いしこりが残る。
「ルルーシュ」
「はい?」
「なに止まってるの?」
「……?」
「手。せっかくの料理が冷めてしまうよ?」
「ああ……」
 肉の切れ端を口に運びながら、スザクが上目遣いで俺を見た。大口で男らしいが、綺麗な食べ方だ。
「少し、考え事をしていて」
「それで、手が止まっていた?」
「ええ」
 育ちや品の良さを感じさせるマナーの良さに、以前調べたスザクの経歴を思い出す。
 故・枢木首相の一人息子。……そういえば、由緒正しい家の出身だったか。
「どんなこと?」
「今日、目覚めてからずっと考えていたんです」
「うん?」
「貴方のことを、もっとよく知りたいと」
「……俺のこと?」
 スザクの動きがはた、と止まった。
「ええ。前にも言いましたけど、貴方は不思議な人だから……。どこかが近いように思えてならないんです、貴方と俺は。性格は全く違うかもしれないけど、初めて出会ったその時から――いえ、本当はその前からずっと、俺は貴方との間に他人とは思えない何かを感じていた。だから、聞かせて欲しいなと思って。スザク自身のこと」
「…………」
 スザクは俺が話している間、食事の手を休めたまま、考えの読めない無表情で俺の顔を見つめていた。
 やがて、僅かな沈黙を挟んでから「そうだな」とひとりごちる。
「俺も君と同じく、両親とももういないよ。実家はまだあるけど、軍に入ってからは一度も戻っていないし。勘当同然、っていうのかな」
「縁を切っている、ということですか?」
「親族とはね。両親については二人とも亡くなっているんだ」
「そう、ですか……お母様も」
「母は、俺がまだ赤ん坊だった頃に」
「…………」
 だからだろうか、と俺は思った。
 初対面にも関わらず、俺の過去について親身になって聞いてくれたのも、スザクにとって、少なからず幼い頃からの境遇に似通った点があると感じたからなのだろうか。
 同種の人間が、相手との間に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ることがあるように。……だとすれば、あの時スザクに対して感じた直感についても得心がいく。
 求められている。欲されていると、言葉も無く本能だけで全てを解り合えた、あの感覚についても。
「君は俺のこと、どこまで知っているんだ?」
「どこまでって?」
「たとえば、このエリア11出身といったようなことの他に」
 俺に問いかけながら、スザクはオレンジジュースを注いでいた。
 グラスを傾け、一口呷る際に眇められた目元。ごくごくと音を立てて飲む度に上下する喉仏。
 ついさっき肉を食べている姿を見た時にも思ったことだが、とにかく自分とは違って、一つ一つの動作が男らしくて目を奪われる。
 洗練された優雅さとは質の異なる野生的な色気というのだろうか……つくづく何をしていても様になる男だ。
 スザクに気付かれぬうちにと視線を逸らした俺は、いかにも魅入ってなどいなかった風を装いつつスズキの包み焼きにナイフを入れた。
「貴方は有名人ですから。――と、いうのは嘘で。本当は調べたんです。貴方に出会う前に」
「調べた?」
 何故? と問いたげな眼差しを向けてくるスザクに、俺は黙々と口を動かしながら一度だけ首肯して見せた。
「ネットで拾える情報だけですけど……貴方を好きになった時に、どんな人なのかなと思って」
「それで、俺の出自を?」
「経歴もです。プロフィールのようなものも含めて、自分で調べられる限りのことを」
「…………」
 その場に、やや気まずい沈黙が落ちる。カトラリーを操る音だけが時折響くのが有難く思えた。
 別に、打ち明けられたところで特に喜ばしい話ではあるまい。それどころか、どうともリアクションのとりようが無いだろう。
 戸惑うスザクの様子に無理もないと思いながら、俺は言葉を続けた。
「こんなことバラされても気持ち悪いだけですよね。もし不快だったら謝ります」
「気持ち悪いだなんて……どうしてそんなことを言うの?」
「俺、どうしてスザクだったのかなって気になっちゃって。俺は男で、スザクも男なのに……それがどうしても不思議で」
「人を好きになるのに性別は関係ないだろ?」
「そういう意味じゃなく……。男だからとか女だからとか、それだけじゃなくて……スザクだったのは、どうしてかっていう意味ですよ」
「……ああ、そういうこと?」
 スザクは手元に視線を落としてからポタージュの皿を引き寄せ、スプーンを手に取った。
「俺の出自や経歴の他に、何か知りたいことはあった?」
「ええ。貴方の気持ちを」
「――俺の気持ち?」
「ええ。何を考えて、どんな風に生きてきたのか。略歴だけでは解らない貴方自身のことを、いつか話してもらえたらいいなって……。俺と貴方は、その……ずっと一緒にいられる訳ではないと思うから……」
「ルルーシュ……」
 スザクの声に滲むやるせなさ。
 低く沈んだその声に、俺の気分も滅入る。又しても考えなしに重い話を振ってしまったと、俺はたちどころに後悔した。
 本当は昼食の折にそれとなく、あくまでもスザクにとって負担にならない形で切り出す予定だったのに、またやってしまった。
 これでは遠回しに責める物言いに聞こえてしまってもおかしくはない。実際は、全くそんなつもりではなかったのだが……。
「朝から話すことではありませんでしたよね。忘れて下さい」
 取り成すつもりで俺が苦笑すると、スザクは無言で首を振る。
「そんなことはないよ。君にそう言ってもらえるのは凄く嬉しい。有難う、ルルーシュ」
 スザクはそう言い置いてから「でも」と続けた。
「誰かから理解されたいとか、そういうのはもういいんだ。昔、一人だけ認めてくれた人がいたから……。それに、君も知ってる通り俺は軍人で――元々、罪人だ。だから、君にとって聞いて面白いと思えることなんか何も無いと思う。……それでもいいのか?」
「――――」
 刹那、吸い込む空気が針になった。
 飲み込んだ鋭利な棘が心臓に到達するなり、もう抜けない深部まで食い込んだのだとはっきり気付く。
 昔、一人だけ認めてくれた人がいたから。
 何故か、その言葉が耳の奥にこびり付いたまま離れなかった。
 スザクは瞬きも忘れて自失する俺を余所に、ポタージュを一口飲んでから「これも美味しいな」と呟く。……でも、俺にはそれが、どことなくそらぞらしさを含んだ響きであるようにしか感じられなかった。
 さりげなく話を逸らすための修辞(レトリック)。つい今しがた開いたばかりの心の穴に、寒々しい風が吹き抜けていく。
「それでも知りたいんです。貴方が嫌じゃなければ」
「…………」
 カチャリ、と音を立てて、スプーンを持つスザクの手が止まった。言い募る俺を穴が開きそうなほど見つめてから視線を落としたスザクは、スプーンを皿の中に沈めたまま動かない。
 そうして、僅かに揺れる瞳で俺を見た。
 今にも「弱ったな」と言い出しそうな淡い笑顔。……言われなくても解った。明らかに渋られている。
 本心を隠した拒絶の笑顔。これ以上、俺に深入りされることを避けるための――。
 けれど、迷惑そうというよりは、どちらかというと申し訳なさそうに見えるのは気のせいだろうか。
 頑なに閉ざした心の扉。その奥で、どこか疚しさを感じている印象を拭い切れないのは……。
 躊躇うスザクを前に、いっそ訊いてしまおうか、と俺は思った。
 誰にも理解を求めていないというのなら、俺はどうすればいいのかと。
 ただ黙って見ていればいいというのだろうか。スザクが今尚癒えぬ傷に苦しんでいるところを。
 傍に居る俺に出来ることは、何も無いのか。それは暗に、お前はそこに居てもいなくても同じことだと言われているのと、何も変わらないんじゃないのか?
 スザクは、俺に何を求めているんだろう。俺を傍に置こうとする理由は? そもそも、これは本当に求められ、欲されているうちに入るのだろうか。
 何の為に、俺を抱いたんだ? 一体、俺に何を――。
 今すぐにでも問い詰めてしまいたいと逸る心を押し止めながら、俺は漏れそうになる溜息を無理やり飲み込んだ。
 ……解っている。スザクからすれば、自分の過去など、他人に打ち明けたい部類の話題では無いのだと。
『どんな些細なことであっても聞くよ。だから、何でも隠さず俺に打ち明けてくれ』
 俺は、スザクにそう言われて救われたように感じたけれど、万人が万人、俺と同じように感じるとは限らない。
 ましてやスザクは、自分ひとりであっても背負うに重い過去を、他の誰かへと分け与えることで救われようとする人でも無いのかもしれない。
 ……それでも、間違っているだろうか。スザクが抱えている筈の痛みや苦しみを、共有させて欲しいと望むのは。
「俺では駄目ですか?」
「え――?」
「話す相手が俺では、貴方にとっては……」
 続く言葉は声にならなかった。
 俺では、スザクにとって打ち明けたい相手には、なり得ない?
 ずっと共にいられる相手でもないというのとは別の意味合いで――もっと大切な相手が。スザクにとって、自分の全てを共有したいと思える相手は他に居て、それは、俺ではないからか?
「ルルーシュ……」
 痛ましげな目で俺を見るスザクから、俺は顔を背けた。
 咎めるようなその響き。とてもではないが直視出来ない。答えを聞くのが怖い。
 ……だって、俺はまだ自信が無い。
 スザクの心の大部分を占めているのは、今目の前に座っている俺ではなく、本当はあの『大切な友達』。もしくは、喪ってしまった『かけがえのない女性』のことなのかもしれないと、もう気付いているから。
 過去に拘るのも仕方の無いことだと解ってはいるけれど、どうしようもなくもどかしい。
 スザクに向かう貪婪なこの思いに気付かれたくは無い。女々しく一方的に求めるばかりの醜さなど、いっそどこかに投げ打ってしまいたい。
 別に、構わなかった。スザクを追い詰めたい訳じゃない。
 何もしてくれなくていい。俺のことなんかどう思っていたって構わない。
 ――本当に、どうでもいいんだ。貴方が笑ってくれるなら……たとえ、それが俺の隣じゃなかったとしても。
 だって、それがスザクに会いたいと思った俺の、ほんとうの望みだったんだから……。
「やめましょう、もう、この話は……。変なことを言ってしまってすみません。忘れて下さい、本当に」
 言いながら、俺は気を取り直すように食事を再開した。
 テリーヌにナイフを入れ、一口運ぶ。けれど、好物の海老が入っているのに味などほとんど解らなかった。
 ……もし、俺がたった今感じた通り、スザクが俺に何一つ求めていなかったのだとしたら――認めたくは無いが、それはきっと、俺の心を要らないと言っているも同然のことなのかもしれない。
 それともスザクは、自身の苦しみは誰とも共有し得ないものなのだと、疾うに達観しているのだろうか。そこまで遠いところに、もう行ってしまっているのか?
 やはり、スザクの欠けた部分を埋めることが出来るのは、俺ではなく――。
 瞬間、異物を詰まらせたかのように喉が嘔吐いた。砂を噛む心地で何とか嚥下し、新しいグラスを取ってからジュースのピッチャーへと手を伸ばす。
「あ……」
 察したスザクの方が早かった。さっと伸びた手が取っ手を掴んで代わりに手渡そうとしてくる。
「――――」
 少し考えてから、俺は緩く首を振ることで断った。やり場を無くした手を引っ込めて浮きかけた腰を椅子に落ち着け、深く座り直してからミルクのグラスを傾ける。
 その一部始終を、スザクは静かな眼差しでじっと見守っていた。
 ……もし、全部俺の想像通りだったとしたら、俺に出来ることは、たった一つだけだ。
 スザクの苦しみを、その痛みを分け与えてもらうことを望むのではなく、せめて俺と一緒に居る間だけは忘れられるよう、少しでも癒されるよう、出来得る限り明るく振舞うことのみ。
 そう思いながら、俺は捨てられた子犬のような目で俺を見つめていたスザクににっこりと笑いかけた。……すると、強張った真顔がゆっくりと解けて、スザクもぎこちなく笑い返してくる。
 ――ああ。
 やっぱり、どうしようもなく、この人が好きだ。
 笑顔を見るなり緩みそうになった涙腺を、俺は辛うじて押し留めた。
 スザクが俺に対して本気でないのなら、いずれ「ほんものの相手」が現れた時に冷めるだろう。
 ……その考えは、予想以上の痛手を俺の心に与えた。
 もしくは、その相手を失ってしまったからこそ、スザクは俺で代用しようとしているのだろうか。もう二度と塞がることの無い心の欠落を埋めるために。
 スザクは、何故俺を抱いたんだろう。執着の強さを示す証にさえ思えるほどの、無数の所有印。それを俺の全身へと残すほどの、あの激しさは……?
 全ての疑問の源は、そこにあるように思えた。
 浴室で鏡を見て混乱に陥った時のことを考えながら、ふと、グラスを持つ手が止まった。
 ……疑問といえば、俺自身の体についても不思議に思えることがある。
 さっきシャワー中に人知れず醜態を晒した後から、ずっと気になって考え続けていたことだ。
 食事中に考えることでは決してはない。でも、出来ることならどう思うかスザクに意見を仰ぎたかった。俺一人で答えを出すには、これはどうにも難しい問題のように思えてならないからだ。
 まだたったの二回しか寝ていないのに、俺は何故か、もう抱かれることに慣れているような気がする――。
 ……勿論、気持ちの上では決してそうではない。行為の時は死ぬほど恥ずかしいし、簡単な接触はおろか、会話をする時でさえ未だに緊張する。
 けれども、体の方が――。
 そんな馬鹿な話があるかとは自分でも思う。正真正銘、初恋で初体験。スザク以外の誰とも、体を重ねることなどしていない。
 勘違いだ。単なる妄想。でなければ、思い込みから来る錯覚の類に過ぎない。……しかし、そう解っていながら、消せない染みの如く疑念が湧き上がってくる。
 全く知らない筈なのに、知っている感覚。
 本来受け入れる作りではない場所を使って繋がっているというのに……俺は一度目も、そして二度目も、痛みどころか違和感らしきものすら感じなかった。
 ……どころか、俺は初回から、身体のもっと奥深い部分で――。
「ルルーシュ」
「はいっ!?」
 唐突に呼ばれて飛び上がりそうになった。
 俺も驚いたが、スザクはもっと驚いたようだ。大袈裟すぎる俺の反応に団栗眼をぱちぱちと瞬かせながら呆気にとられている。
「また考え事?」
「違うんです、これは――」
「なんだか様子が変だよ。さっきからずっとぼんやりしてるし、口数も少ないし。……それも俺が原因、なのかな」
「いえ、そういう訳じゃ……」
「悩んでるんだろう? 本当は。まだ気になってることがあるなら、隠さなくていいから全部話してごらん」
 スザクはスプーンを傍らに置き、真剣な顔つきになって改まってくる。
 そんな風に優しくしないで欲しい。スザクの優しさは残酷だ。
 ……でも、どうしよう。
 眉根を寄せて完全に聞く体勢になっているスザクを前に、俺は今感じている疑問について打ち明けるべきかどうかぐるぐると悩んだ。
 言った方がいいのか。正直に全部話して、相談してしまった方がいいんだろうか。
 だけど、どうやって――?
「あの、実はどう説明すればいいのか、俺にもまだ……」
「纏まっていなくてもいいよ。ちゃんと聞くから」
 話しているうちに伝えられるようになるかもしれないだろう? とスザクは優しい声音で諭してくる。
 尤もな意見だとは思うが、俺は羞恥とばつの悪さ、そして気遣わせてしまっている居た堪れなさと後ろめたさとが混然一体となった感情を持て余しつつ、内心派手に取り乱してしまっていた。
 最初は、スザクが慣れているからなのだろうとばかり思っていた。けれど、二度目の行為を終えてから初めて抱かれた時のことを反芻してみると、改めてその異常さに気付く。
 何が何だか解らないうちに終わったとはいえ、与えられる快楽がどれ程のものなのか、俺は既に知っている……そんな感じさえあった。
 あの行為には、向き不向きでもあるのだろうか。でなければ説明がつかない。
 一応、知識として知ってはいた。恋した相手がスザク――つまり、同性だったから。
 スザクに抱いているのが恋心だと悟った時に、ネットで少しだけ調べた。というのも、自分が本当に同性愛者なのかどうか知りたくなったからだ。
 流し見した情報の中に、確かあの行為のことも書いてあったように思う。色々と耐え切れなくなって途中で投げ出してしまったが、きちんと読んでおけばよかったと今更のように後悔する。
 ――でも……最初からあんな……。可能なのだろうか……。
 あれは……俺のあの反応は、普通のことなのか?
 本能に期待がプラスされた時の自然な反応。
 今までは、勝手にそう解釈して結論付けていたけれど……。
「ルルーシュ」
「?」
 不意に、スザクの声が固くなった。
 何事かと思って視線を上げれば、疑惑の針で突き刺すような眼差しに真っ向から射抜かれる。
「俺には言えないことか?」
「! 違います……!」
 その言い回しにハッとして、俺は慌ててかぶりを振った。
 厳しい表情にもみえるけれど、そうじゃない。――これは、スザクの心に残る生傷が疼いている時の顔だ。
「隠し事ではないんです」
 これ以上スザクに変な誤解をさせたくない。そう思いながら落ち着いた声ではっきり告げると、スザクは顔の前で両手を組んだままスッと目を眇めた。
「それは本当?」
「スザク――」
 信用されていないのか。
 ショックを受けた俺が非難の意を込めて名を呼べば、スザクは痛みを堪えるように顔をしかめた。力無く「ごめん」と呟いてから組んだ両手を解き、儚い笑みを浮かべて俺を見る。
 ――どうして……。
 スザクの表情を台詞に置き換えるなら「またやってしまった」というところだろうか。
 厭世的とも受け取れる疲れを滲ませたスザクに、今度こそ隠しようのない悲しみが押し寄せてくる。
 そんなにも忘れられないのか。その『大切な友達』のことを。……受けた裏切りを。傷付いた思いを。
 またしても、スザクの世界から弾き出されてしまった。そんな感覚に、俺は酷く切なくなるばかりか、今すぐにでも泣き崩れてしまいたいくらいだった。
 その笑顔は「気遣い」としての笑みではない。ただの「拒絶」であり「諦め」の笑みだ。
 解っているから。申し訳ないと思っているから。
 でも、自分でもどうしようもないんだ。だから、何も言わないで。――そういう意味での。
 ここに俺がいるのに。こうやって話しているのに……向き合っているように見えて、スザクは俺と向き合ってなどいない。
 重ねてなどいないという台詞が嘘ではないかと、俺が疑っていることにも気付いているだろう?
 なのに、踏み込んでこないのか。それとも怖いのか?
 ……やはり、この人は軍人には向いていない。俺は改めてそう思った。
 この人はとても強い人だけれど、それ以上に、本当はとても傷付き易くて弱い人なのかもしれない。
 脆くて繊細で、怖がりで。すぐに心を閉じて一人きりになろうとする。……本当は、そういう人なのではないか?
 スザクはとても臆病だ。多分俺に踏み込まれるのも怖いのだろう。
 それに、凄く頑固だ。
 自分一人で抱え切れないなら抱え切れないと言えばいい。――それとも、自分など壊れてしまってもいいというのだろうか。
 俺は好きだ、愛していると伝えたはずだ。嘘を吐かれても構わないし、俺は貴方にだけは嘘は吐かない。そうも言った。
 それなのに、その思いさえ無視して、自分勝手に壊れてしまうことを選ぼうとしているのか?……だとしたら、スザクはあまりにも頑な過ぎる。
 自分と似ている部分があると思うからこそ、一瞬、初めてスザクに対して苛立ちを覚えた。
 まるで頑是無い子供のようだ。
 自分に罰を与えるかのように、スザクはわざわざ自分自身を辛くしていく。
 部屋の隅に縮こまって、閉じた扉に向かって背を向けて、誰かに優しく頭を撫でてもらって宥められるまで、いつまでも怒った顔をしながら膝を抱えている子供のように。
 常に「俺は一人だ」と、自分に言い聞かせているのだろうか。それとも、「俺は一人きりでいなくてはならない」と決めてしまっているのか?
 ……いや。でなければ、こういった壁の作り方はしないだろう。
「スザク、」
 誤解だ。俺が切り離したんじゃない。だから、どうか心を閉じないでくれ。
 しかし、思わずそう言いかけた俺の声は、短く「ルルーシュ」と呼ぶスザクの声によって遮られた。
 スザクは皿に盛られたパンを一つ掴み、俺の顔を見つめたままそれを千切っている。
「はい」
「?」
「食べて、ルルーシュ」
「――――」
 指先で摘まれ、正面から差し出されたそれを、俺はじっと見つめた。一口大に千切られた意図については――何となく理解出来る。
 手で受け取って食べようかとも思ったが、俺は僅かに逡巡してから、そろりとスザクへ視線を向けた。
 スザクは身を乗り出した俺の顔を真剣な面持ちで凝視しながら、唇にそっとパンの欠片を押し当ててくる。薄く口を開けて銜えると同時にくいっと中に押し込まれ、内心、親鳥から餌を貰う雛のような食べ方だと無性に気恥ずかしくなった。
「…………」
 黙って咀嚼している俺を見て、スザクは愁いを含んだ表情で笑っていた。膨らんだ俺の頬をちょん、とつついてから、優しく触れてきた指先が離れていく。
 向けられた真摯な眼差しを、俺は真っ向から受け止めた。
 ――口に出されずとも解る。これは、暗黙の了解。そのための儀式なのだと。
 こうした些細なやりとりで、口には出せない何かについて許し合うための……。
 つい今しがた、心の内側でスザクを責め、激しく詰ったことを、俺はスザクに向かって声に出さずに詫びていた。
 直したいけれど直せなくて、自分でもどうしようもなくて……それでも、自分以外の誰にも抱えることの出来ない欠点なら俺にもある。
 頭に血が上り易い己を、俺は恥じた。
 拒絶と牽制を押してでも言った方がよかったのか、それとも、こうして引くことこそ正解だったのか判断はつかない。
 でも、今は――。
 ……ともあれ、俺はスザクを好きになった理由を打ち明けたものの、スザクからはまだ、具体的な理由については何も聞かされていない。
 スザクはとてもミステリアスで、よく解らない部分が多すぎる。
 こんな風に言葉が無くても通じ合い、解り合うことだって出来るのに、とても近くて遠い存在。
 初めてその瞳を見た瞬間、心を撃ち抜かれた。一目見た時からずっと会いたいと願っていた人なのに……やっと会えたのに。
 それでも、近付くことは未だに怖くて、心に触れようとすれば酷く痛くて――それなのに近付きたい。
 この人は難しい人だ。もしこれがゲームやチェスの一局だったとするならば、俺にとってはその方が余程簡単だったことだろう。
 茨に覆われた彼の心に寄り添うには、一体どうすればいいのか。
 助けられる。自分なら救うことが出来る。そう驕っていられるほど俺は傲慢じゃない。
 それでも本当の彼に、スザクに会いたかった。
 誰よりも傍に居たいし、居て欲しい。そんなことを思うのもスザクに対してだけだ。
 今、目の前に居るのに会いたい。只そればかりを想う。
 離れていることの方が不自然で、離れた次の瞬間には、もう会いたい。
 二人一緒でなければ寂しくて、切なくて、心のどこかが欠けてしまう。その隙間を満たせる人が、埋められる人こそがスザクなのだと俺は思った。
 たとえスザクにとっての俺が欠落を埋められる存在ではなくとも、俺にとっては他の誰でもない、この人でなければ駄目なのだ。
 この人にだけは、愛されたい。……だから俺は、スザクを目の前にする度に、いつも焦ってばかりいるのかもしれない。
 そして、俺がこんな不安を抱く理由の内の一つが、自分自身やスザクから感じる一連の――あの、謎めいた「慣れ」でもあるのかもしれなかった。


Lost ParadiseⅡ 3(スザルル)




 朝食の準備を整え、弁当も何とか詰め終わったところで、突然背後からノックの音が響いた。
 続いて、返事をする間も無く無造作にドアが開かれる。
「ああ、居た。おはよう、ルルーシュ」
「お……はよう、ございます……?」
 ノックの直後にドアを開くのでは、ノックの意味が無いだろう。
 驚くというより困惑しながら振り返った其処には、制服姿のスザクが立っていた。……何故ここに?
 そのまま入ってくるかと思いきや、スザクは入り口の戸を開け放ったままこちらを眺めている。先に来るとしたらリビングの方だと思っていたのに、いきなりキッチンに現れるとは思わなかった。
「よくここにいるって解りましたね。もう少ししたら呼びに行くつもりだったんですよ?」
「リビングに行ったらいなかったから、多分ここだろうと思って」
 勝手知ったる他人の家だ。プライベートスペース以外共用とはいえ、越してきた翌日とは思えない。
 昨夜はもっと客らしかったのに、早くも自分の家として自在に行き来するスザクに笑いが漏れる。良い意味での遠慮の無さは親しくなりたい者としては大歓迎だが、もしかして余所でもそうなのだろうか。
「待っていてくれたら運んだのに。俺、支度もまだで……」
 既にきっちりと制服を着込んでいるスザクに引き換え、俺はまだ制服のズボンとシャツ、その上からエプロンという格好だ。
「いいよ、ここで」
「ここでって……キッチンで食べるんですか?」
「食卓もあるし、別にいいだろ? 運ぶ手間とか時間も勿体無いしな」
 堅苦しいばかりかと思えば、案外大雑把な面もあるらしい。
 邪魔したら悪いとでも思っているのか、スザクはキッチンの入り口に佇んだまま動かなかった。
 慇懃な態度を取られるより、気安くしてくれた方がずっといいのに。ふと、そんな考えが浮かんで苦笑する。
 無遠慮にされることを望んでいるだなんて、今までの俺からすれば考えられない話だ。でも、スザクにされるなら腹が立たない自信があった。
 入って来ないんですか、と一声掛けようかと思ったが、何にせよ、奔放な振る舞いに苛立ちを感じないのは、多分相手がスザクだからだろう。砕けた態度で接されることが寧ろ嬉しく、好ましい。
「一人で待っててもつまらないから来ちゃったんだけど……何か手伝うことは無い?」
「駄目です。制服が汚れる」
 とんでもないとばかりにキッパリ断ったのがおかしかったのか、後ろからふっと忍び笑いが聞こえてきた。
 帝国最強の十二騎士を顎で使えというのだろうか。それも憧れの人を。シチュエーションとして心惹かれるものが無いとは言わないが、正直勘弁してもらいたい。
 冷蔵庫からジュースのボトルを取り出す俺に向かって、スザクは「エプロン着けてないと駄目なんだ?」と悪戯っぽい口調で尋ねてくる。
 いかにも天然らしい悪気の無さゆえ、からかわれているのかどうか判然としない。……ついでに、返答を求められているのかどうかも。
 シンクに戻って飲み物をピッチャーに移し変えている間、見られていると如実に解る視線を背中に感じて落ち着かない気分になった。
 ……あまりじっと見つめないで欲しい。スザクの眼差しには一種独特の艶気があって、どうにも緊張してしまう。
「いい匂いだな。おいしそうだ」
 トレーニングの後で空腹なのだろうか。スザクの声は嬉しそうだった。
「昨夜の残りですけど、本当にいいんですか?」
「構わないって言ったろ? 豪華でいいじゃないか、朝からフルコースだなんて」
「ソルベとアントルメは冷蔵庫の中です。朝から全部じゃ重いですよ」
「じゃあ夜に」
「わかりました」
 さすがに一旦ナイフを入れてしまったステーキの方は処分してしまったけれど――これは、スザクには言えない。
「これ、かかってるソースって?」
 入り口近くに置かれたワゴンを見ているのだろう。スザクが興味深そうに訊いてくる。
「鴨ですか? オレンジソースです」
「手作り?」
「ええ。フォンドヴォーがまだ残ってるので、夜にシチューでも作りますよ」
「シチュー?」
「ええ、牛肉もまだあるし、ルウを足してビーフシチューでも。フォン作りが一番時間かかるんですけど、それさえ作ってしまえばデミグラスソースもすぐ出来ますし。……こってりしたもの、好きなんでしたよね?」
「――うん。好きだよ」
 歩み寄る足音と共に近付いてくる声。
 やっと入ってきたのかとスザクの方へ振り返れば、思いのほか距離が近くてドキリとする。
「……どうかした?」
「え? ああ、いや、別に何でも」
 慌てて取り繕う俺を見て、スザクは不思議そうに首を傾げていた。
 いちいち魅入ってしまう癖をどうにかしたい。これでは挙動不審だ。
 目覚めてからずっと会いたいとばかり思っていたせいか、穏やかで大人びた笑顔でさえ目に毒だった。
 接近する気配と共に息遣いまでもが直に迫ってくるように感じられて、決して不快ではない緊張を覚える。
 洗った手をエプロンの裾で拭い、脱いだそれを綺麗に畳み終えたところで、スザクが「あれ?」と声を漏らした。
「髪、まだ濡れてるじゃないか」
「あ、これは……」
 真横から伸びてきた手にサイドの髪をひと房掬い取られ、傍らに置いておいた取り皿へと伸ばした手が止まってしまう。
 米神に滲む汗がスザクの手に付くのでは、と気が気ではない。想定外な事態に遭遇し、長引いてしまったシャワーの後で慌しく調理していたせいだ。
「何、乾かす時間無かった?」
「いえ、ちょっと」
「じゃあ、寝坊でもした?」
「…………」
 浴室での出来事を思い出した俺は、違うと首を横に振りながら、それを誤魔化そうと目を逸らした。
 尋ねてくる声は限りなく優しくて、続けざまに「やっぱり起こしに来れば良かったかな」と鼓膜を震わせる響きですら甘く感じる。
 するりと離れていく手に若干の名残惜しさを感じながらも、些細な触れ合いにさえ胸が高鳴り、酷く意識してしまっていることに気付く。……それでいて、接触されることを心のどこかで待ち侘びているというのだから本当に始末に負えない。
 浅ましい思考に侵されて後ろめたさを感じている俺の気持ちに気付いているのかいないのか、スザクはあっさりと離した手で頬にかかる俺の髪を耳にかけてくれた。
「……っ」
 指先が敏感な部分を掠めた刹那、肩を竦めて息を飲む俺の様子に、スザクが僅かに目を瞠った。
 感触がしつこく残り、触れられた箇所を中心にじんわりと熱が広がっていく。スザクにとっては特に他意など無い行動だったのだろうに、俺ばかりが意識してしまっているようで妙に恥ずかしい。
 さっと身を翻し、取り皿を持ってテーブルへ運ぼうと、俺は一歩踏み出した。
 と、そこで、重みがふっと消えたことに気付いて手元を見れば、重ねた二枚の皿はいつの間にかスザクの掌中へと収まっている。
「急がなくてもいいよ。まだ時間あるから」
 やんわりと笑んだスザクが俺から取り上げた皿を一旦他所へ置き、対面になるようテーブルをセットし始めた。
 ワゴンの上から、次々と料理が移されていく。海老と帆立のテリーヌ、トマトのムースやそら豆のスープ、スズキの包み焼きに鴨肉のオレンジソース、チキンのハーブサラダ……。
 いそいそと、とでも表現するべきか。率先して動く挙措には淀みも躊躇いも無い。
「えっと……マットどこかな。ああ、これか。敷くよね?」
「あ、はい……」
 ワゴンの上に丸めておいたランチョンマットを敷き、その上に手早く食器やカトラリーを並べていくスザクの背中を、俺は半ば唖然としながら見守っていた。
 しかも、そのセットの手順というか、皿やグラスの配置の仕方に至るまで、俺のやり方にそっくりであることに気付いて二度驚く。
「……!?」
 昨夜見たままを真似たのだろうか。……いや、それにしても。
 一度見ただけのものを、こうも完璧に覚えられるものなのか?
 天下のナイトオブラウンズが朝食の準備という驚きもあったけれど……何故か、只こなれているだけというよりは、まるでいつも通りのことを淡々とこなしているような「慣れ」が見える気がして変に戸惑う。
 さっきも思ったことだが、これがスザクでなければ「ここは元からお前の家だったのか?」と口にしているところだ。
「……なんか、慣れてますね」
 スザクから滲み出る、この「慣れ」は一体何だろう。
「言ったろ? 俺も一人暮らしだって」
 ポカンと立ち尽くす俺の前を通り過ぎたスザクは、シンクに置かれたままのピッチャーを我が物顔でテーブルへと運んでいく。
 阿吽の呼吸とは、このことだろうか。俺が調理、スザクがテーブルセット。元々役割分担が決まっていたかのようだ。
 普通、もっとぎくしゃくするだろう。こうまでしっくりと、全てにおいてスムーズにとはいかない。
 そもそも、俺は典型的なA型で、完璧主義と自負してもいる。スザクがそれに気付いているかどうか解らないものの、俺は本来どちらかといえば細かい方で、よほど慣れた相手とでない限り同居などストレスにしかならないのだ。
 ……それなのに、この鮮やかとしか言いようの無いスザクの手並みに関しては、文句など無いどころか満点だった。
 幾らなんでも協調性が高すぎやしないか。一体どうなっているんだ? この人は。
 驚きや感心を通り越して、素朴な疑問さえ感じてしまう。
 あまりにも違和感が無さすぎる。却って不自然なくらいに。
 出会って間もない相手と、二人三脚どころか二人羽織並みの連携プレーが自然にこなせてしまう、なんてことがあるのだろうか。
 さながら、これが何の変哲も無い日常の一幕であるかのように――どころか、ずっと昔から一緒に生活してきた家族のように。
「それより、シャワーの時、困らなかった?」
「?」
 振り返りざまにランチョンマットのずれを直すスザクの手つきにも、やっぱり「あれ?」と思う。
 意外と細やかかと思えば、丸まった端の部分を手の甲でサッと払う仕草はやたらとぞんざいで。
 ……それがまた、気遣いで手伝ってくれている割には、どうも「私物を扱う」手つきに見える。
 何の気なしにすぐ触れてきたりするところもそうだが、考えるより先に手が出る感じで触ってくるので、毎回距離感が異常に近くてびっくりするのだ。――さながら、自分の所有物に触れる手つきのようで。
 スザクは一見真面目だが、性格は神経質でも几帳面な方でもなさそうだ。
 それなのに、自分で敷いたマットのズレによく気付けたものだと、俺はまたも感心した。スザクがそのままにしていたら、俺が後で直そうと思っていたのに。
 こちらの意図を見計らった絶妙なタイミングで、それもごく自然に先回りされ、気になっていた部分をピンポイントで「これでしょう?」と指し示されるこの感覚。
 痒いところに手が届くというよりは、水中に落とした大切なものを掬い上げるような的確さ。
 長年一緒に暮らしてきた家族でも、こうはいくまい。かといって、この場合においては「以心伝心」と言い表すのも何か違う気がした。
 よっぽど性格が似ているのだろうか。もしくは考え方が近いのか? そう思ってから、俺は即座に違うと打ち消した。
 ……有り得ない。真逆な印象しか無い。
 昨日までは、もっと違っていた。スザクの態度は確かに他人であり、客だった筈なのだ。
 それが、今日は……。
 いや、昨日までのように余所余所しい態度を取られるよりはいいのだが……でも、ただ合わせてくれているだけの筈なのに、それが不自然なほど完璧過ぎるからこそ腑に落ちない。
 そう。譬えて言うなら――「一心同体」。一緒に生活していく上で一番必要な「習慣の一致」を感じるのだ。
 こういう時は、うちではこうする。
 他人とは易々と共有し得ない、目に見えない決まり。各家庭独自のルール。そういった部分が、不思議と示し合わせていたかのように重なっていく感覚。
 そして、またそこに、本来ならば長年連れ添った相手くらいにしか感じないであろう「慣れ」が見える――。
「ルルーシュ?」
「えっ?」
「聞こえてる?」
「あ、ああ……はい」
 スザクの所作に見入って考え事に終始していたせいか、反応が遅れてしまった。
 ほとんど上の空で聞いていた台詞。……確か、シャワーがどうとか。
 スザクは、普段から誰に対してもこうなのだろうか。それとも、単純に他人の家で相伴にあやかることへの気遣いなのか?
 ――どうしてだろう。理解されているのとは別の意味合いで「知り尽くされている」感じがするのは。
 傍目から見れば呆けているようにしか映らないだろう俺の顔を見て、スザクがクスリと笑った。
「どうしたの、ボーッとして」
「いえ、何でも」
「そう。ならいいけど……昨夜そのままにしちゃっただろ。髪乾かす時間が取れなかったのも、もしかしてその所為だったのかと思って」
「……!」
 スザクからの鋭い指摘に、俺はようやく我に返った。
 暫しの間、顔から火が出そうな思いを味わう。その通りだとも言えず口ごもる俺を見て、スザクが今度はうっそりした笑みを口元に刻んだ。
 肯定よりも雄弁な沈黙。言えない言葉を飲み込んだ俺は俯くしかなくて、足音も立てずに近寄ってきたスザクの気配に気付けなかった。
 爪先へと降ってきた影にハッと顔を上げれば、覗き込んでくる一対の深緑と真っ向からぶつかり、射竦められたように呼吸が止まってしまう。
「跡、残っちゃったね」
 ぽつりと落とされた低い囁き。
 まろみを帯びた翡翠の色合いを連想させるスザクの瞳が、第二ボタンまで開いていた襟ぐりの内側を見つめている。
 どこを見られているのか悟った瞬間、激しい羞恥に見舞われた俺は、身動き一つ取れぬまま固まってしまった。
 心の奥底まで暴かれそうな強い眼差しが、殊更ゆっくりと皮膚の上を辿っていく感覚。……視線が通った道筋に沿って、肌が焦げ付いてしまいそうだ。
 そうやって見つめないでくれ。耐えられない。今すぐにでも逃げ出してしまいたくなる。
 俺がそう思った時、ようやく張り詰めていた空気が緩んだ。
「ごめんね」
「別に、謝らなくても……」
 鋭かった視線は和らいだのに、まだ瞳の奥に危険な光が宿っている気がして緊張を解くことが出来ない。
「そうじゃない。処理出来なかったことについてもそうだけど、それだけじゃなくて」
「じゃあ何――」
「わざとなんだ」
 これはね、と言いながら、スザクは開かれたシャツの襟ぐりへそっと手を差し込んでくる。
「! な、何……」
 予告も前触れも無い唐突な接触。指先でさらりと掠められただけで、背筋にぞくりと震えが走った。
 反射的に後ずさろうとした俺の腰に腕が回され、すかさず引き寄せられてしまう。
「いっぱい付けられててビックリしただろ。……嫌だった?」
 シャツの内側へと滑り込んだ掌が鎖骨の上を辿り、首筋を包み込むように撫でていく。
 こそばゆいだけではなく、内側に眠る何かを呼び起こすような生々しい触れ方。どこまで耐えられるか試す手つきに追い詰められ、知らず肌の表面が粟立っていく。
 全身に伝染してゆく震えを悟られぬよう肩を竦ませている間、スザクは項を覆う俺の後ろ髪を指先で遊ばせていた。髪をかき上げながら後頭部へと巡らせた手で、肩口へと押し付けるように頭を抱き寄せてくる。
「嫌じゃ、ないです……」
「そうか」
 やっとの思いでそれだけ告げると、耳元に落とされた呟きの語尾が安堵の色に染まった。
「どうしてって訊かないのか?」
「な、何で」
「訊きたそうな顔してたから」
「じゃあ……どうして、ですか?」
「付けずにはいられなかったんだ――ごめんね」
「…………」
 なんてことを言うんだろう。
 衒いなく語られた台詞はあまりにもストレートすぎて、俺には一生かかっても言えそうに無い。
 腰に緩く巻きつく腕も、頭を抱き寄せてくる掌も、そして仄かに伝わってくる体温やこの声も……何もかもが夢のように気持ち良くて、水底で揺蕩う魚になった気分だった。
 卸したての衣類の匂いが鼻先を擽り、俺はスザクの制服が新品であることに気付く。
 ――でも、スザクの匂いだ。
 ただそれだけで、何ともいえない心地がした。


Lost ParadiseⅡ 2(スザルル)




 実際に接してみて解ったことがある。
 単なる思い込みの範囲をやや逸脱し、妄想の領域に踏み込んだ感さえあった俺のスザクへの印象は、あながち外れてはいなかったらしい。
 スザクはやはり、心に深い傷を負っていた。
『大切な友達』から受けた酷い裏切り。
 嘘を吐いた友達の卑劣な手によって死に追いやられた『かけがえのない女性』の存在。
 どちらとも親しい間柄だったのだろうが、スザクは彼にとって大事な人間を二人同時に失ってしまったことになる。
 俺とて幼い頃に両親を殺され、癒えぬ傷を植え付けられた者のうちの一人だ。しかし、俺にスザクの心底を推し量る術などありはしない。
 何故なら俺の場合、犯人は赤の他人であって、身内ではないからだ。
 一つだけ確かなのは、スザクがその過去ゆえに嘘を嫌い、俺に対して『本当の顔』で接するようにと望んでいること。
 初めて出会ったあの日。
『慈しみという言葉の意味は、『慈愛』です』
 そう述べた俺の言葉を聞きつけたスザクは、嗚咽を漏らし、声を圧し殺して号泣していた。
 あんな泣き方をするなんて……よほど辛かったに違いない。
 俺にとっては生まれて初めての経験だった。ああまで痛々しく涙を流す人の姿を見たのは。
 一体どんな人だったんだろう、その『友達』は。それに、殺されてしまった『かけがえのない女性』というのは?
 本人の口からそんな言葉が出てくるくらいだ。ひょっとすると恋人だったのかもしれない。
 殺されたと言っていたが、どうやってそれを知ったのか……まさかとは思うが、俺のように現場に立ち会ってしまったのか?
 それに、殺した相手であるその『友達』はどうなったんだろう。もう既に逮捕されているのだろうか……。
 体を重ねる関係にこそなったものの、俺はまだスザクのことを何も知らない。
 一体どんな思いで生きてきたのか。略歴で語られる人生や人となりを知るだけでは決して量れない、彼の本心についてまでは。
 不幸という安易な一言では括り切れないほど凄惨な過去。
 只でさえ重すぎる身の上のせいで謂れなき差別や偏見を受ける過酷な環境下、更に大切な友人が殺人者となったばかりか、かけがえのない女性を殺した相手が、あろうことかその友人だったなんて。
 気になることは他にもある。
 軍人としての資質や能力が高いことについては疑う余地も無いが、彼は決して戦いを好むような人物ではない。
 借り物の力を自らの力と勘違いし、高みに立ったつもりになって他人を見下す者など幾らでもいる。特に貴族の子息女ともなれば、自身を誇ることと、他者を見下し、蔑むことが決してイコールでは無いことすら解らない馬鹿も多い。
 ブリタニアというのはそういう国だ。……それなのに、あれだけの地位にいながら、スザクには少しも驕ったところが無い。
 元々心根の優しい性格なのだろう。自分では短気だと言っていたが、偉ぶらずフランクに接しようとしてくれて、親切で。ちょっと堅苦しいくらい生真面目なのに天然なところもあって。
 それに、出会って間もない俺の話を、あんなにも親身になって聞いてくれた。
 敗戦国の首相の息子という立場上、おそらくは色々な事情もあった筈。
 しかし、だとしても、逆風しか吹かないと解り切った場所に居続ける理由がどこにある?
 軍とは、日常的に人殺しを強要される場所。――即ち、もっと直接的な言い方をすれば、殺人を生業とする職業だ。
 あのスザクがそんな生き方を望み、自ら選んだとは到底思えない。
 大体、銃火器どころか携帯電話の所持さえ認められない名誉ブリタニア人が、こともあろうに軍属として一から出世の道を目指すなど自殺行為も甚だしい。本当に出世できるだけの力があったから良かったようなものの、碌な後ろ盾の一つも持たないナンバーズ一人の命など、軍にとっては使い捨ての駒か消耗品以外の何物でもあるまい。
 この国は階級制度による格差が激しく、生粋のブリタニア人であっても認められることは難しいのだ。公然と差別の横行する軍であれば尚更のこと、幾ら努力したところで正当な評価を得られる保障などほぼ皆無。
 スザクのような立場であれば、目立てば目立つほど周囲への反感を煽ることにもなる。
 前例の無い出世へのやっかみ。人も羨むその裏に、何らかの不正があるのではといった勘繰りの度合いが増すにつれ、水面下で、あるいはもっとあからさまに足を引っ張る動きだって増えていく。
 ……下手をすれば、命を狙われることだって。
 首相が鬼籍に入ったとはいえ、親族の反対などは無かったのだろうか。祖国の人々からも裏切り者扱いされ、スザクにとっていいことなど何一つとして無いというのに。
 スザクの生き方は、俺にとっては、まるで自分自身を苦しみの中へと追い込んでいるようにしか見えなかった。
 自虐的と言い換えてしまってもいいかもしれない。
 俺は正直に言えば、「競い、奪い、獲得し、支配しろ」という、この国の基本理念自体が大嫌いだ。
 主義者と勘違いされれば只ではすまないと解っているから口にこそ出さないものの、本当は、この非情な国そのものに対して生理的な嫌悪感さえ覚えているほど。
 実際に、社会的弱者になってみれば解る。
 幼い頃に家族を失い、一人きりになった時の孤独と不安。人の痛みを無視したこの国で、どう生きていけばいいのかと途方に暮れていた十歳の俺。
 スザクも俺と同じだったのだろうか。
 日本が敗戦したのは今から八年前のこと。母親はどうか知らないが、父親である枢木首相は戦後まもなく自決している。
 同い年であるならば、彼も当時十歳だった筈だ。きっと俺の想像など絶するほどの辛苦と悲嘆とを味わい、その中で認められようと人知れず努力を重ねてきたに違いない。
 出身がこのエリア内だとは知っていても、正確な地域までは解らない。故郷からそう遠く離れてはいないと思うが、どの辺りに住んでいたんだろう。
 ブリタニアではなく、嘗ての故郷に居るのだ。蹂躙されて久しい祖国とはいえ、望郷の念だって感じているんじゃないのか?
 スザクは今、何を感じている?
 ――知りたい。共有したい。たとえ、ずっと一緒には居られない相手なのだとしても。
 ふと、昼休みにでも訊いてみようか、と俺は思い立った。あまり深入りした質問さえしなければ、少しだけなら答えてくれるような気がする。
 いい考えだ。
 そういえば、スザクはもうトレーニングに行っただろうか。走ると言っていたが、どこを走るのだろう。そう思いながら背後のカーテンを引けば、空は生憎の曇天だった。
 約束したのに、と俺の顔も曇る。
 たった数時間前に離れたばかりなのに、もう会いたくてたまらない。
 昼までには晴れてくれればいいが、天気予報のチェックが先だ。「雨だけは降るなよ」と誰に言うでもなく呟いてから、俺はまだ温もりの残る寝床からようよう這い出て床へと降り立つ。
 足裏に広がる、ひんやりとしたフローリングの感触。ベッド下へと視線を移すと、そこらかしこに脱ぎ捨てた衣類が点々と散乱していた。
 否が応にも情事後であることを匂わせてくる惨状を目の当たりにして、一糸纏わぬ姿でいることが突然気恥ずかしくて堪らなくなる。誰に見られている訳でもないのに後ろめたい気分になった俺は、散らばった服を一枚ずつ拾っては畳み始めた。
 無駄なことをしたと気付いたのは、全て畳み終えた後だ。どうせこのままランドリーボックスに入れてしまうのだから、別に畳む必要なんか無いのに……。
 何をやっているんだ? 俺は。それも素っ裸のままで。
 みっともないと自分に呆れながら、シーツを掻き抱いて再びベッドへと寝転び、時計を見遣ってからぎょっとして跳ね起きる。
 朝の十分は貴重だというのに、気付けば十五分ものタイムロス。余裕を持って目覚めたつもりが、朝っぱらからあれこれと頭を悩ませて十五分も……!
 いつまでも布団と仲良くしてなどいられないとばかりに俺は立ち上がった。畳んだ衣類を片手に束ねてバスルームへと向かう。
 さっさと朝食の支度をしなければ。それから、今日は弁当も拵えなければならない。
 何より、寝汚い奴だと軽蔑されるのだけは絶対に御免だ。……勿論、そんな人ではないと解っているけれど。
 バスルームへと続くドアを開いた俺は、洗濯物を籠の中へと放り込む。
 まずは歯を磨こう、と洗面台の前に立ってから、鏡に映った自分の上半身を見て絶句した。
 ――嘘だろ。
 制服の襟でも隠せるかどうかという際どい部分にまで――それも、なんと首の両側全面に渡ってキスマークだらけにされている。
「何だ、これは……?」
 その場に立ち尽くしたまま、俺は呆然と呟いた。
 こうして見ていると、まるで皮膚病のようだ。
 さっき視認出来た分だけではなかったということか……道理で、首を動かす度にチクチクと痛む訳だ。
「………………」
 ぶるぶると全身に震えが走り、次いで、鏡に映った顔がみるみるうちに赤面していく。
 直視出来ずに目を逸らした俺は、歯ブラシだけを掴んでパーテーション代わりのカーテンを開きかけ、歯磨き粉を忘れたことに気付いて全力でリターンした。
 棚に置かれたカップごと目的のものを引っ掴み、なるべく鏡が視界に入らないよう顔を背けながら、逃げるようにしてバスタブの中へと飛び込む。
 勢いよくカーテンを引いた俺は、呻きにも似た声を漏らしながらズルズルとその場に蹲った。
「ス、スザク……これは……」
 ちょっとどころではなく、困る。……どう考えても付けすぎだ。
 首を押さえて軽く混乱しながら屈んでいると、つい先程までは気付かなかった場所――ちょうど内腿から足の付け根に至る箇所にまで鬱血の跡が散っているのが目に入った。
「――っ!?」
 大慌てで両足を閉じた俺は、居た堪れない思いに苛まれながら倒れた手元のカップを立てた。
 転がった歯ブラシを拾って口に突っ込むと、乾いた毛先の感触に気付く。震える手で引っこ抜き、カランを捻って出した湯をカップに注いでから濡らした歯ブラシをもう一度咥えるまでの間、俺はほぼオートで動いていた。
 どうしよう……どうしよう。制服の襟できちんと隠せるだろうか。こんな状態で体育着なんか着たら……。
「!!」
 ぐるぐると回る頭の中で突如閃いたのは、本日の時間割。
 ――絶望的だ。
 いざとなったらスザクに口を利いてもらうしか……とにかく、何としても、体育の授業だけは休むしかない!
「ほわぁぁっ!?」
 湯を出すつもりだったのに、うっかり逆に回してしまったせいで頭上からまだ冷たいシャワーを浴びる羽目に陥った。
 おかしな叫び声を上げて竦みあがった俺は、慌ててカランに切り替えて湯温が整うのを待つ。咥えていた歯ブラシだけは辛うじて落とさずに済んだものの、全身冷たい上に目に水は入るし散々だった。
 今更ながら、酷い動揺の仕方だ。冷静さを失うと、俺はいつも頭が真っ白になっては訳の分からないことばかりしてしまう。
 口を漱いだ湯を足元に吐き出すのが何となく嫌で、一度洗面台に戻ろうかと思案する。数秒ほど逡巡してから、俺は結局諦めた。
 まだ朝になったばかりだというのに、既に一日分の精神力を消費してしまった気分だ。
「なんで、ここまで……」
 溜息交じりに漏らしながら、改めて疑問に思う。
 優しく柔和でありながらも、激しい側面を持ち合わせているのは知っている。
 しかし、それにしても――。
 再びおかしな方向に思考が流れそうになった俺は、シャワーのコックを捻って暫く流してから、目を閉じて降り注ぐ湯に打たれていた。
 温かな湯が全身を伝っていく感触に、ようやく人心地がつく。
 ほうっと吐息した俺は、取り留めなく揺蕩う思考の波へと再び身を委ねた。
 ……馬鹿なことを。
 彼だって、異性ならともかく、同性を抱くことに慣れているのかというと決してそうではあるまい。
 ナンバーズとはいえ、異例の大出世を遂げた上に、あの外見だ。本来なら俺の手など届かないどころか、会うことすら叶わないような権威ある相手。
 女性から秋波を受けることなど山ほどあるに違いない。今日だって、皇帝陛下直属の騎士が初登校するともなれば、学園の女子達が色めき立つだろうことも容易に想像がつく。
 そこまで考えて、また大きなため息が出た。
 ……元々の癖なんだろうか。こんな風に跡を残すのは。
 この異様とも思えるほどの痕跡の数といい、妙に執着めいた行為のように感じられるのは気のせいか?
 それに、ついさっきも考えたことだが、同性を抱くことに嫌悪感を覚えたりはしないのだろうか。
 俺は女が苦手だが、見ている分には男よりも女の方がいい。過去の記憶が邪魔をして、女と接したり恋愛対象として見るのが難しくなってはいても、やはり本能では、男に抱かれるよりは女を抱く側でいたいと感じている部分もある。
 スザクはどうなんだろう。元々ゲイなのか? だとしたら納得はいく。
『……実は、君も俺の友達に似てるんだ』
 不意に、晩餐の最中に打ち明けられたスザクの台詞を思い出し、ズキリと胸が痛んだ。
 被せて見ていたのか、と尋ねた俺の言葉に、スザクは「そういう訳じゃない」と答えてくれた。だが、その台詞の前にほんの少しだけ沈黙があったことを思い出した俺は、何となく気分が沈んでいくのを感じていた。
 物腰は柔らかくても、スザクが時々刺すような鋭い目線で俺を見ていたことには気付いていた。
 まだ出会ってから日が浅いし、職業が職業だ。目つきが鋭いなど、一々些細なことを気にしすぎるのも良くない。そう思って誤魔化してきたけれど、何か決定的なことを突きつけられてしまったような気がしてショックだった。
 言われた瞬間、一番最初に頭を過ぎったのは、生徒会室で初めてスザクと言葉を交わした時のこと。
『君はすごく頭がいいそうだな。今度俺に勉強を教えてくれないか?』
 まさかの、スザクからのアプローチ。
 そんなことを言い出されるだなんて思ってもいなかった俺にとっては、本当に嬉しい台詞だった。
 たとえそれが、親交を深めるための社交辞令でしかないのだと解っていても。
『でもその、勉強って……俺が、ですか?』
『駄目かな』
『い、いえっ! そんな……俺で良ければいつでも』
『君がいい』
 手を握ったまま間髪入れずに言い切られ、あの真っ直ぐな眼差しに見つめられ、まさに天にも昇る気持ちだった。
 気に入ってくれたということだろうか――俺を見て。……そう思っていたのに。
 スザクの泣き顔を思い出しながら、俺は考えた。
 よくよく考えてみれば、おかしな話だ。口で憎いという割に、スザクはどうにも矛盾している。
 何故、わざわざ憎い友達に似た俺を選んで重ねようとするのか。普通は避けるだろう。今も憎んでいるだけだというならば。
 スザクの悲しげな瞳。
 今も傷付いたまま、頑なに嘘を嫌うその姿勢。
 そして、その原因となったらしい、彼の『友達』……。
 スザクは、とても大切だったと言っていた。そして俺の目から見ても、スザクの心は今もまだ、その『友達』の存在に捕らわれたままのような気がする。
 それはそうだろう。心の傷となるほどの悲劇だったのだから。
 でも……。
『友達』に殺されたらしい『かけがえのない女性』
 仮に、その女性がスザクの元恋人だったとしよう。
 けれど、俺にとって少し不思議に思えるのは、スザクはどちらかというと、その女性を殺されたことよりも、『友達に嘘を吐かれたこと』の方に傷付いているように見えるということだ。
 確証は無い。強いて言えば、只の勘。
 一応、何事も事実に基づいて判断するべきだと解ってはいる。事件の詳細について聞き及んだ訳でもないのに、憶測だけでそうだと結論付けてしまうなど俺らしくもない。
 殺されてしまった女性に対する思いが深いからこそ、そして、その友達のことを大切に思っていたからこそ、今も怒りや憎しみから解放されずに苦しんでいるのだろう。
 けれど、だからこそ余計疑問に感じるのだ。
 どうして、憎んでいる筈の『友達』に似ている俺と……?
 ……その時、唐突に、心臓の裏に冷たいものが走った。
 ある考えが頭に浮かび、俺は悪寒と共に凍りつく。

 もし、その『友達』とも。
 ――いやだ。

 俺と同じような関係だったのだとしたら?
 ――イヤダ。違う!

 本当は、
 ――駄目だ、これ以上考えるのは!

 俺と、その『友達』を重ねていたからこそ、俺ともこういう関係に至っただけなのだとしたら……?

 ―――嫌だ!!
 咄嗟に頭を強く振った俺は、覗き見に等しい下品な妄想を無理やり追い払った。
 ……やめよう。あまりにも悪趣味だ。
 考えようによっては、酷い邪推でしかないじゃないか。
 只の嫉妬にしたって、醜いにも程がある。
 そう考えてから、俺は、スザクの『友達』に嫉妬している自分にようやく気付いた。
 見当違いだ。まだ決まった訳じゃない。いや、そうじゃないだろう。根拠など何も無い以上、単なる勘違い。俺が勝手に、ズレた思い込みに嵌まっているだけに過ぎない……。
 変なことばかり考えていないで、さっさと上がって朝食の支度をしよう。
 そう思いながら急いで体を洗い終え、全て流し終わったところで、俺は股座に妙なぬるつきを覚えた。
 まだ流し切れてなかったのか。
 止めたシャワーをもう一度出し、残る泡を洗い流そうと湯を当てる。
 ……ところが。
 もういいだろうとシャワーを止めた直後、また同じ箇所にぬるつきを感じた。
「……?」
 どういうことだ? なんでここばっかり……。
 もしかして泡じゃないのか、と思いながら問題の箇所を触ってみると、透明とも白濁しているともつかない液体が掌に付着する。
 泡ではないが、出したばかりのボディーソープのような感触。
 なんだ、これは? シャワーがおかしいのか?
 全て落としきった筈なのに、何故こんなものが?
 そう思いながら、掌を擦っていた俺は唐突に気付いた。
 ――俺から出ている……?
 泡が残っているのでも、シャワーの湯がおかしくなったのでもない……?
 その予想が確証に変わったのは、おそるおそる自分の後孔へと触れた時だった。
「――!!」
 驚きが確信に変わると同時に、俺は派手な混乱に陥った。
 後処理されていない体液が流れているのだ。……スザクのものが、俺の中から。
 今度こそ本気で居た堪れない思いになり、俺はその場へと蹲る。
 どうすればいいんだ、こういう時は!?
 一度目の時は、こんなことは無かったように思うが……まさか俺は、自分の中に指を突っ込んで掻き出さなくてはならないのか!?
 ――いや、ちょっと待て。
 背中に冷や水を当てられたような感覚。
 俺は、不自然な体勢で固まったまま放心していた。
「俺、なんで……」
 どうして、そんなことを知っている……?
 何の疑問もなく後処理の方法について考えていた自分に気付くなり、俺は再度酷い混乱に陥った。
 ――俺は、どこでそんな方法を……?
 いや……いや、落ち着け。
 普通に考えて、その方法しかないだろう。別に問題はない。いや、問題というか……本当に問題なのは。
 流れ続けるシャワーの音だけが浴室に木霊する中、俺は泣きたくなるような気持ちで、流れ続ける昨夜の残滓を何度も何度も洗うことになったのだった。

Lost ParadiseⅡ(スザルル)




 久しぶりに、あの夢を見た。
 緑の生い茂る雑木林。一面に広がる向日葵畑と蝉の声。真っ青な夏空と入道雲。
 中天から降り注ぐのは、じりじりと焦げ付くような太陽の光。
『ルルーシュ! 早く上って来いよ』
 間延びした声が耳を打つ。上から降ってくる声に向かって、俺は顔を上げた。
 長い階段。ぜいぜいと切れる息。敷石に点々と落ちる俺の汗。
 ――そうだ。あの階段は何度上っても、そのしんどさに慣れることなんか決してなかった。
 ふらつく足どりでどうにか上り切り、がくがくと震える膝に力を込めて懸命に地面を踏みしめる。肩で呼吸しながら膝に手を付くと、掌も膝もしっとりと汗に塗れていた。
『なぁんだ、もう息切らしてるのか。だらしないな』
『うるさいな。この体力バカ!』
『なんだと? 口の減らない奴だな、このへなちょこ--』
『へなちょことは何だ! 失礼だぞ、---!』
『ホントのことだろ?……ほら』
 差し出される少年の手。
 振り払おうとしてから渋々掴まった俺は、くの字に屈めていた上体をようやく起こして……。
『まあ、お前の根性だけは認めてやるよ、ルルーシュ』
 親しげに俺を呼ぶ懐かしい声。
 素っ気無くて乱暴だけど、俺は、この手にだけは掴まることが出来るんだ。
 口うるさくて自分勝手で……だけど、いつだって何だかんだと助けてくれて、俺と違って裏表が無くてまっすぐで。
 そして何より、心根が優しい。
 だから俺は、こいつのことだけは信用出来る。---のことだけは。

 そう思いながら、振り返った遥か後方に見えるものは…………。


Lost ParadiseⅡ


 まどろみから目覚めると同時に、ゆっくりと意識が浮上する。
 白い天井。いつもと何も変わらない光景。……俺の部屋。
 むくりと起き上がってから呟いた。
「赤い……何だっけ?」
 あれは、なんだっただろうか。
「確か、トリイ、とかいったな」
 初めて出てきた。今まで見た夢には一度も出てこなかったのに。
 それに、あの少年。顔の作りこそぼやけていてよく思い出せないものの、全体的な印象が似ている。――彼に。
 あのまま成長したら、と考えかけてから、俺は思考を止めた。
 その可能性は今までにも幾度か考えた。でも、スザクに話した時にもそれらしいリアクションは特に無かったのだから、やはり違うのだろう。
 夢に出てくる少年は、いつも同じ格好だ。属領となる前のここ、エリア11――日本の民族衣装である『キモノ』に若干似ているようにも思える服装だが、詳しくは解らない。
 毎度のことながら、おかしな夢だ。そもそも、何故そんな変わった服を着た子供と遊んでいるんだ、俺は?
 今度時間がある時にでも調べてみようか、と考えつつ俺は目を擦った。
 肌寒さを感じながらベッドサイドを見回すと、ふと自分の上半身が視界に映る。――何も纏っていない。
「あ……」
 ドキリと心臓が鳴って、一瞬だけ肩が強張った。
 目に入ったのは、情事の名残も色濃い鬱血の跡。
 腕の内側や胸元、鎖骨の下。まさかこんなに沢山付けられていたなんて思いもしなかった。
 ……これではまるで、行為の証を直接体に残されたようなものだ。
『これは自分のものだ』と。さながら所有印を焼き付けるが如く。
 唐突に昨夜のことを思い出した俺は、ベッドに付いていた手をおずおずと動かす。
 ずず、とシーツの上を滑る掌。布に擦れるその音をどこか遠く感じながら、ようやく呼吸を詰めたままの自分に気付いた。
 まだ煩く鳴っている心臓の上に手を当てて、はあっと大きく呼気を吐き出してから、俺は正面の壁に掛けられた時計を見る。
「六時か」
 普段より幾分早い起床となったが、今日はそれでいい。
「スザク……」
 改めて名を呼ぶだけで、頬にかあっと血が集まっていく。
 とうとう呼んでしまった。夢にまで見た彼の名を。出会う前からあれこれ想像していたことまで知られてしまって、本当に恥ずかしいことこの上ない。
 途端、じわりと心が沸き立つような高揚を感じ、少しだけ関係が進展したようで居てもたってもいられなくなってしまった。……さっきからずっと、胸の動悸が収まらない。
 瞼の裏に浮かぶのは、昨夜見たスザクの引き締まった体躯だ。日頃から続けているらしい鍛錬の賜物なのか、同性であっても見惚れるほど均整の取れた美しい裸体。無駄な部分など一切無くて、どことなく色気があって――。
 比べる相手が悪いだろうと思いながら、俺は抱えた膝に顎を乗せて自分の腕を眺めた。
 同じように細身でありながら、スザクの腕は全く質が異なっていて、もっと逞しい。決して太くはないけれど、敏捷性に富んだしなやかさを感じる筋肉の付き方。健康的に焼けた小麦色の肌といい、素直にかっこいいな、と憧れてしまう。
 脂肪が付きにくい分、筋肉も付きづらいのだ、この体は。
 魚の腹のように白い素肌を見下ろしていると、つくづく貧相だな、と情けなくなってくる。どこもかしこも正反対で、お世辞にもつり合いが取れているとは言い難い。
 スザクは気持ち悪く無いのだろうか。同性なのにこんな体を抱いて、つまらないと思ったりはしないのか?
『ルルーシュ』
 不意に、荒くなった吐息混じりの熱っぽい囁きが蘇った。
 脳髄が痺れるほど甘く響く独特のトーンを思い出すだけで、体の深部から震えにも似た灼熱の疼きが沸き上がってくる。
 まだ出会って間もないというのに、どうしてあんな声を出せるんだろう。そう思いながら、俺は落ち着かない気持ちを治めるために、寝乱れたシーツの上で自分の両肩を強く抱いて背を丸めていた。
 愛おしさを濃縮したような低い声。目を閉じるだけで易々と蘇り、また頬が熱くなってくる。
 初めて抱かれた時は、正に夢心地だった。
 蕩けそうなほど烈しい情欲を滲ませたあの声に名を呼ばれ、そして抱かれたのだ……ずっと憧れていた彼の人に。
 大人びた雰囲気ではあるものの、東洋人ということもあって、スザクはどちらかといえば童顔な方だと思う。けれど、精悍ながらも幼さを残したその顔の作りを裏切っているのは、射抜かれそうなほど鋭い深緑の双眸。
 テレビで姿を見かけるたびに、いつも不思議に思っていた。一体どんな出来事を経験したら、あんな深みを帯びた眼差しになるのだろうと。
 堪え切れないほどの痛みを抑え付けているような厳しい瞳。
 皇帝直属の十二騎士、ナイト・オブ・ラウンズに選ばれるほどの実力の持ち主でありながら、まるで捨てられた子犬のように寂しげで、辛そうで、いつだって苦しそうで……。
 ぽっかりと胸に空いた風穴。その隙間を埋めるものを失ってしまったかのような。
 俺は思い込みが激しいのだろうかと、一時は疑問に感じたりもした。元々、他人に対する興味や関心、執着の度合いは然程強くはない。
 それなのに、俺は一目見ただけで、何故かこう思ったのだ。
 ――会いたい、と。
 どうしようもないほどの懐かしさと切なさ。怒涛のように込み上げてくる激情と焦燥。
 テレビに釘付けになったまま動けずにいるうちに、両目から次々と大粒の涙が溢れ出し、俺は霞む視界の中で呆然と画面を見つめたまま酷い混乱に陥った。
 誰だ、お前は? ナイトオブセブン、枢木スザク? 知らないぞ、そんな奴は。
 それなのに、なんで――?
 そう思う間にも、訳の分からない言葉の羅列が頭の中を駆け巡っていく。
 会いたい。会えない。本当は言いたい。全て打ち明けてしまいたい。
 でも言えないんだ、何も。仕方が無いんだ、言っても。
 おまえにとって、俺はもう、不要な存在でしかないのだから。
 俺の敵。最悪の。憎い。――違う! 信じていたのに! 全ては過去。――解っているさ!
 お前が俺を……本当に? これが現実だなんて……嫌だ。認めたくない。離れていってしまうのか?
 ――違う! 切り捨てたのは俺の方だ!
 受け入れろ。――もう受け入れている! 覚悟ならとっくに……!
 ――嘘吐き。
 もう戻れないんだ、俺達は。離れなければならない。背負わなければ。
 引き返すことなど出来ない。あいつを殺すまでは。
 だから、誰の施しも受けない! 俺は一人でも立ってみせる!
 ……いいんだ、それでいい。
 俺には----だけが居ればいい!
 一体、誰のせいだ、これは? 教えてくれ。
 何故。どうしてこうなった。嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
 ――理解されたかった。俺は。
 他の誰に拒絶されてもいい。世界中の人々に憎まれたって構わない。
 ただ、受け入れて欲しかった。否定しないで欲しかった。
 この世でたった一人きり。
 俺が唯一の友と信じた、お前にだけは…………。
 憤怒と憎悪。底無しの絶望と孤独。胸を刺す強烈な悲しみ。――そして、途方も無いほどの切なさ。
 まるで意味が解らなかった。
 なんだ、これは? 不要? 敵? 殺す……? 何のことだ。誰の話だ?
 それに、その名前は?
 俺は、頭がおかしくなったのか……?
 落涙しながら自問してみても、説明のつかない壮絶な感情の奔流に巻き込まれて声さえ出なかった。
 ただ、一度だけでも構わない。彼に会いたい。近付きたい。何か一言だけでもいいから言葉を交わしたい……そう思った。
 性格は? 話し方は? 一体どんな声で話すんだ? 知っているような気がするのに、何も解らない。
 触れたい。傍に居たい。とにかく俺を見て欲しい。
 もしこの人に見つめられたら、どんな感じがするんだろう?
 その辛そうな瞳には、何か理由でもあるのか? だったら教えて欲しい。知りたいんだ。
 何より、常に心を押し殺すことに耐えているようなその表情が、笑顔に変わるところを見てみたい。
 ――欲しい。どうしても欲しい。
 何を押しても、この人が欲しい……!
 恋だと気付いた時には、とっくに後戻りできないほどの深みに嵌まっていた。
 こんな激しい感情は知らない。今まで体験したことなど一度も無い。でも、自分でもどうにもならないほど彼のことを欲している。愛してしまっている。
 そう自覚した時、接点など何一つ無いことに深く傷付き、絶望し、心底口惜しく思った。
 一目惚れなんて有り得ないと馬鹿にしていたのに。けれど、そんな安っぽい言葉で片付けられたくもない。
 だから、何度も何度も夢想した。実際会えたら。名前を呼び合えるような関係になれたらと。
 その彼が――スザクが。今、同じ屋根の下に住んでいるのだ。手を伸ばせばいつでも届く距離に。触れ合える場所に。
 ……俺の傍に。
「信じられない……」
 目を閉じて思わず呟いた俺は、組んだ腕の下へとたくし上げたシーツに顔を埋めていた。
 あろうことか、抱き合える関係。それも、もう二度も……。
 出会った初日に言われた言葉。
『お前は、俺にどうされたいんだ?』
 正直に本音を言えたら、お前の望み通りにしてやる、と。
 本音を言うのは、とても怖い。だから、もっと上手く嘘が吐けたらいいのにと、俺は常々そう願っていた。
 それなのに、俺が心から会いたいと望んでいたスザクは。
『俺に命令しろって言ってるんだ。俺が必ずお前の望みを叶えてやる』
 柔らかかった物腰が百八十度豹変し、粗野とも粗暴とも言える態度で迫ってくるさまは、それは恐ろしかったし怖かった。
 優しげな笑顔も、人当たりのいい態度でさえも全てが作り物で、もしかすると、この顔こそが彼の本性なのだろうかと疑いもした。
 ――だけど。
『俺はお前を裏切らない。信じろ。ルルーシュ』
 駄目押しのような、この台詞。
 力強い言葉に押されて、抗うという選択肢などある筈が無い。
 別に構わない。この獰猛な部分が彼の一部だったのだとしても。それでも彼を好きな俺の気持ちに変わりは無い。
 求められている。欲されている。そう察することが出来たのは本能だったのだろうか。
 一瞬で全てを解り合えたような気がして、気付けばこの身ごと委ねる覚悟が決まっていた。
 そして、反射的に叫んでいた。『俺を愛せ』と。
 何もかもが、不自然なほどに自然。
 まるで血の契約に沿うように。これはきっと、魂に刻み込まれた覚書のようなものなのだと。あの時の俺は、そういった自身の感覚を信じて従っただけだ。
 ……確かに、疑問はある。
 俺とスザクは初対面だ。全くそんな気はしないものの、それはあくまでもこちらが一方的に思慕を寄せていたからこその話であって、スザクにとっては何の思い入れも無いただの一生徒だったに過ぎない。
 それなのに、言うだろうか。『俺に命令しろ』などと……。
 スザクのことを知ってから、俺はネットで彼のことを調べた。可能な限り詳しく。
 軍の方で規制されているのか大した情報は拾えなかったが、出身地やプロフィール、過去の経歴などは、ニュース記事等を遡ればある程度知ることが出来た。
 エリア11出身の名誉ブリタニア人。日本最後の首相、故・枢木ゲンブの一人息子。
 加えて、故・クロヴィス殿下殺害事件の容疑者として検挙された過去まで持ちながらも、突出した戦闘能力を買われて一等兵から准尉へと格上げされ、人型自在戦闘兵器・ランスロットのデヴァイサーに選ばれている。
 のち、名誉ブリタニア人でありながら、故・ユーフェミア副総督の騎士に異例の大抜擢。前代未聞ながら名誉騎士侯となり、更に少佐へと特進。
 が、特区日本記念式典中にユーフェミア皇女殿下が乱心したことにより、イレブン虐殺騒動が発生。当時このエリア内で起こった『オレンジ事件』――もとい『枢木スザク強奪事件』を皮切りに、全世界を席巻していたテロリスト組織・黒の騎士団は、暴徒と化した民衆ゲリラを巻き込み政庁へと進軍。
 ブラックリベリオン勃発。
 警護任務中で式典会場内にいたスザクは単機にて専行、黒の騎士団リーダー・指導者ゼロを捕獲。騎士団を壊滅させ、これを鎮圧。
 反逆者ゼロの逮捕、及びクーデター阻止の功績により、帝国最強の十二騎士、ナイトオブセブンの称号を得る。
 その後も全国各地の反ブリタニア勢力をたった一機のナイトメアで制圧し、数々の武勲を立て続けていることから、帝国本土での地位はおろか、評価でさえも磐石なものとなり。
 圧倒的戦力を誇る純白の機体に擬えてもいるのだろうが、彼に纏わったとされる人物全てが死亡している事実に基づき、いつしか反抗勢力の間では、彼自身に対する畏怖をも込めてこう字されるようになったという。
 通称――『ブリタニアの白き死神』
 生い立ちだけ見ても、相当複雑な立場であったことは想像に難くない。だというのに、ほぼ出世など見込めない不利な立場からスタートしたとは到底思えないほど華々しい経歴だ。
 そもそも、実力主義を謳うこの国において、これだけ認められる実力の持ち主という時点で尋常ではない。知れば知るほど凄まじい人生を歩んできたと言わざるを得ないだろう。――はっきり言って、雲の上にいるような相手だ。
 組んだ腕とシーツの狭間に顔を埋めたまま、俺は、心のどこかが欠けたようなスザクの瞳を思い浮かべる。
 忘れてはいない。彼は軍人。
 そう。――スザクは、人を殺しているのだ。


プロフ

夕希(ユキ)

Author:夕希(ユキ)
取扱:小説・イラスト・漫画

スザルル大好きサイトです。版権元とは全く関係ないです。初めましての方は「about」から。ツイッタ―やってます。日記作りました。

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