Lost ParadiseⅡ 4(スザルル)
4
これが「幸せ」というものなのだろうか。
どうしようもないほどの安心感と共に、胸が詰まるような、ぎゅっと締め付けられるような甘苦しい想いが込み上げる。
背に回していいものかと迷う腕をスザクの腰へと回し、陶然と瞼を落としたまま両手を組んでいると、ぴったりと合わせられた胸越しに心臓の鼓動が伝わってきた。
聴覚へと侵食する衣擦れの音や密やかな吐息。
離れなければと思うのに、その全てに意識を掻き乱されて碌に抗えない。
「ルルーシュ」
「はい……」
「キスしていい?」
「――――」
「……するよ?」
「――っ、」
確認というより、寧ろ宣告にも等しい台詞の直後、顎を捕らえてきた手に素早く上向かされ、あっという間に唇を塞がれてしまう。
焦点が合わないほど間近に迫った顔。幼い作りとは裏腹な、野性味を帯びた表情。
目を閉じていても、やはり整っている。今日登校すれば、きっと盛大に騒がれることだろう。――そう思うや否や、胸にズキリと痛みが走った。
嫌な気分だ。
もう何度目かの疼痛に、俺は顔を歪めた。……スザクは俺以外の人と、どんな風に接するんだろう。俺は今日から、スザクが別の誰かと親しくする姿を見なければならないのか。
この人と俺は身分が違う。ずっと一緒に居られる相手ではない。いつか、遠く引き離される日が来てしまう。
だからせめて、俺と一緒に居る間だけは、他の誰でもない俺のことだけを見ていて欲しい……。
閉じた唇を軽く触れ合わせるだけのキスが続いた。啄ばんでは離れていくそのやり方では到底物足りない。
もっと耽溺してしまいたいのに、俺の頭の中は冷えた思考へと傾いていくばかりだった。腰に回していた手を滑らせて背中にしがみ付くと、スザクもそれに応えるかのように腕の力を強めてくる。
降り続いていた口付けが止み、暫くの間、二人無言で抱きしめ合っていた。
触れ合えば触れ合うほど飢えていく。いっそ、誰も入ってこられない二人だけの世界に行ってしまいたい。
誰もこの人に触れないでくれ。俺たちの間に割り込まないでくれ。
……そしてスザクも、決して俺以外の誰かを選んだりしないで欲しい――。
貪婪な自分自身の心に、俺は本気で慄いた。一体今の今までどこにこんな激情が潜んでいたのだろう。
俺はこんなに独占欲の強い性格だっただろうか。自分でも疑問に思えるほど際限が無い。
黙ったまま肩に凭れ掛かっていると、スザクが僅かに身じろいだ。開いた隙間に一歩引きかけたところで腕の力が強くなり、おもむろに伸びてきた手にくい、と額を押されて喉が反る。
再び寄せられてきた唇に導かれるまま、俺は瞼を閉じた。
羽根先を触れ合わせるような互いの息遣い。押し当てられる唇の柔らかさ。
汁の滴る熟れた果実になって、スザクに食べられているみたいだ。
二度、三度と繰り返されるごとに吸い付く強さは増していき、やがて、そっと遠ざかっていく気配に「もう終わりか」と残念に思う。
うっすらと目を開けてスザクを見ると、色味を増した翡翠がじっと俺を見下ろしていた。
何かを訴えかけるような鋭い視線。瞳の奥に立ち昇る、昏いゆらめき。
「……?」
陽炎にも似た揺らぎを目の当たりにして、本能的に身体が竦んだ。据わったスザクの目がどことなく苛立っているように見えて、血の気が下がる。
困惑した俺は、見間違いかと数回瞬いた。――ところが。
「目、閉じて」
短く呟いたスザクの掌が、スッと目元に降りてくる。
「!?」
瞼の上から目頭を覆い隠され、突如として翳る視界。うろたえる俺に構わず、スザクは強制的に俺の視野を封印した。
「――ぅ、んっ!?」
続いて、考えるいとまも与えられぬまま、唐突に深く口付けられて呼吸が止まった。俺の瞼を押さえていたスザクの手が項へと回され、頭を固定するようにぐっと力を込めて押さえつけてくる。
目を瞑った俺が荒々しく割り込む舌を受け入れようと唇を開けば、するりと絡んでくる舌に何もかも奪い尽くす勢いできつく吸い上げられ、脳の芯からぐずぐずに溶かされてしまいそうなほど強烈な痺れが腰に走った。
「んんっ……!」
耳を塞ぎたくなるほど甘ったるい声が喉から漏れる。――自分の声なのに、自分のものではないような。
今のは何だったんだろう。そう思うのに、角度を変えて貪ってくる嵐のようなキスに飲み込まれ、徐々に意識が霞んでいく。
熱くて、甘くて――本気で頭がおかしくなりそうだ。
「……っ、は……」
解放されると同時に、がくんと膝が折れた。
力の抜けた俺の体を片腕で支えながら、スザクが苦笑している。
「大丈夫?」
「そう……見えますか?」
つい出てしまった軽口に、スザクが意外そうに眉を上げながら笑みを深めた。
「それだけ言えるなら平気だろ。……ほら、立って? そろそろ朝ごはん食べよう」
俺の背中をポンと叩いてからくるりと背を向けたスザクは、そのままスタスタと食卓の方へと向かっていく。
まだ煩く跳ね続ける胸を押さえたまま、俺は溜息混じりに離れていく背を見送った。
情熱的なのか素っ気無いのか、よく解らない人だ。……それに、何だったんだろう。さっきの目は。
不可解ではあるものの、わざわざ問いただす訳にもいかない。気のせいだろうと思いたいが、何か嫌な感じのする目だったような――。一瞬のことで、すぐ視界を塞がれてしまったので解らない。
スザクの態度に不審な点は見られなかった。強いて言えば、この素っ気無さだろうか。
でも、さっきの目つきと関連しているなどと考えるのは、さすがに少々突飛でこじつけめいた発想かもしれない。
優しい人であることは間違いないけれど、スザクは時々こうしてあっさり引いてくる。
飴と鞭を一時に与えられる感覚。でなければ、重いだろうと力を込めて持ち上げた荷物が軽かった時のようだ。精一杯身構えていた分、肩透かしを食らった反動は大きい。
そしてスザクは、こちらが気を抜いたその一瞬を見定めたかのように不意打ちしてくるのだった。
たった今されたことにしてもそうだ。意図的なのか無意識なのかは知らないが、俺は毎回その手管に翻弄され続けているような気がする。
多分経験値が違うのだろう。同い年にしてはどうも早熟で、いささか老成し過ぎているようにさえ思える。
こういった態度をひっくるめて「余裕」というのかもしれないが、たった今施されたキス一つ取ってみても、スザクはとにかく全てにおいて「慣れている」ように思えた。
椅子を引きながらチラリとこちらを伺う眦はすまなそうに下げられていて、多少照れ臭そうに映る。少なくともその表情を見ている限りでは、あんな大胆なことを仕掛けてきた人物とはとても思えない。
自分から煽ってきたくせに、申し訳無さそうにするなんて何だかずるい。
少しだけ憎らしくなってきた俺が不満げに眉を寄せると、シャイで大人しそうだった笑顔は、たちまち不敵かつ挑戦的なものへと変化する。
――そういう顔をすると、酷くタチの悪い男のようだ。
スザクが時折見せる二面性。ひやりとさせられる瞬間だった。
癖が強く、アクも強い。……しかし、それでもスザクに抱く印象の良さは不思議と変わらなかった。
恋とはそういうものなんだろうか。根拠を求められても返答に窮する絶対的な信頼。それは、心の奥底に深く根ざした樹木の如く、頑として揺るがない。
けれど、切り替わった空気に名残惜しさと安堵の両方を覚える反面、やはり不安になってくる。
どう見ても、異性に不足している感は無い。それなのに、スザクは何故、同性の俺を……?
浴室で考えていたあれこれが一気に蘇り、また嫌な気分に陥った。
惚れてしまっている以上、悩んでみても仕方がないと解ってはいる。……でも、そう思えば思うほど、より不安は増していくばかりだった。
「何難しい顔してるんだ? 早くおいで」
シンクに手を付いたまま突っ立っている俺に痺れを切らしたのか、スザクはグラスになみなみとミルクを注ぎながら急かしてくる。
「早く食べないと、遅刻しちゃうよ」
スザクは、朝はミルク派なのか。
オレンジジュースではなくミルクを選んだスザクに「俺と同じだ」と思いながら、のろのろと席に着く。
すると、腰を下ろした直後、そのグラスはスザクの前ではなく、コトリと俺の前に置かれた。
「はい、飲んで」
「――――」
びっくりしすぎて思考が途切れてしまった。
至極当然のことのように促してくるスザクの顔とグラスとを交互に見遣ってから、俺はおそるおそるスザクへと問いかける。
「……俺の?」
「うん」
「よく、解りましたね」
「何が?」
「俺、朝はミルクか紅茶派なんです」
今朝はたまたま淹れる時間が無くて用意出来なかったのだが、習慣としてはそうだ。腹に何も入れたくない時でも、一応これだけ飲んでおけば昼までには持つ。
まじまじとスザクの顔を見つめていた俺に、スザクは「そう」と言いながらふわりと笑った。
「昨夜、アルコール飲んでただろ? まずはこれでも飲んで、お腹労わって?」
「…………」
そういう意味か。
穏やかな口調に一応納得する。一瞬「どうして知ってるんだ?」なんて思ってしまった自分に拍子抜けする思いだった。
「胃に来るほど沢山飲んでませんよ」
「いいから」
……強引だ。しかも、何故か逆らえない。そして、それが嫌じゃないから尚困る。
有無を言わせぬ口調に押されて、俺は渋々グラスを口に運んだ。冷たいミルクが食道を通り抜け、動き始めた胃袋が今まで感じなかった空腹をようやく訴えてくる。
飲み終えてから一息つき、テーブルにグラスを置いたところでスザクと目が合った。……どうやら見られていたらしい。
と、そこで、何故か寂しげに瞳を細めているスザクの表情に目が釘付けになる。
遠いどこかへと思いを馳せるような。そして、もう二度と還らない何かを懐かしんでいるかのような。
――寂寥。哀惜。
ふと、そんな言葉が頭を過ぎった。
ただ見ているだけで胸が痛くなるほど切ない微笑みに、喉が詰まる。
――どうして、そんな顔をして俺を見る……?
問いかけようとした俺が言葉を発する前に、スザクはすっと瞼を伏せた。
「いただきます」
何事も無かったかのように一言告げてから食事を始めるスザクの姿は、ほんの束の間、世界から切り離された一枚の絵画となった。
急激に時の流れが遅くなり、音という音が遠ざかっていく。
まだテレビでしか彼の姿を見られなかった頃のことを、俺は唐突に思い出した。
現実味の失せた世界の中で、ゆっくりと閉じていく心。……いけない。でも―――弾き出されたのは、多分俺の方だ。
鴨肉にナイフを入れるスザクの手元を、俺は出来の悪い映画を傍観する心地でぼんやりと眺めていた。
……今、スザクは、誰を見ていたんだ?
途端、水面に落とした一滴のインクの如く、胸にじわりと広がる黒い思い。
確信があった。直感と言い換えてもいいかもしれない。
スザクは、俺を通して、別の誰かを見ている。
重ねられている。俺以外の誰か……おそらく、例の『友達』に。
堂々巡りだと知っていながら、またも留まることなく疑問が噴き出した。
憎んでいるんじゃ、なかったのか……? 少なくとも、憎悪していると言った者の顔つきではない。今の表情は。
惑う心の片隅で、初めてスザクと身体を重ねた時の会話が蘇った。
『愛の反対は無関心、って言っただろ』
『はい』
『……なら、憎しみの反対って何なんだ?』
『それは、慈しみです』
喩えて言うなら――そう。
『慈しみという言葉の意味は、慈愛です』
「――――」
立て続けに、昨夜交わしたやり取りまでもが走馬灯の如く駆け抜けていく。
『誰よりもよく知っていると思っていたよ、彼のこと。幼い頃からずっと、この年になってからも――裏切られるまでは』
『もう戻れないんですか? その人とは』
『そうだな。やり直すことは出来ない。俺も彼も』
――間違いない。
スザクは惜しんでいる。今も。『大切な友達』との記憶を。
幼い頃からということは、長い付き合いだったのだろう。幼馴染みとして、また、気の置けない親友として誰よりも近くで。
父親が早逝し、どことなく家族の縁が薄い印象のあるスザク。あるいは、彼にとっては血の繋がりよりも濃い存在だったのかもしれない。
具体的に、どこがどう似ているというのだろう。顔貌か、性格か、それとも仕草や表情か……それとも、もっと複合的な要素が絡み合って、俺とその『友達』を似通った者として見せているのだろうか。
たとえば癖や習慣等、俺自身が意識していない部分が似ている場合だってあるだろう。
だが、それが俺を選んだ理由だというのなら、辻褄が合わない。
スザクは初対面で『君がいい』と言ったのだ。あの時点からスザクの中で過去との邂逅が始まっていたというのなら、俺がいいと言った理由は外見に纏わるものでなければおかしい。
それに、癖や習慣まで似ているということは、つまり、生活の仕方、ひいては俺の人となりそのものに重なる点があるということ……。
――馬鹿な。そこまで都合のいい偶然の一致など有り得ない。第一、そんな細かい部分など、一目見ただけで解ったりするものか。消去法でその線は消える。
スザクと俺がこういう関係に至ったのも、互いの間に深い理解があったからだ。一瞬で全てを解り合えうことが出来た――そう思えるほどの。
惹かれ合う何かを感じ、在るべき所に収まるかのように、自然と魂が寄り添った。……その感覚だけだ。今の俺とスザクとを繋ぐ唯一の糸は。
スザクの『友達』について何も知らない俺には、似ている部分がどこなのかさえ推し量ることが出来ない。
よりにもよって、わざわざ憎い友達に似ている俺を選ぶ理由がどこにあるのか。
俺を相手にしようとする、スザクの真意が掴めなかった。重ねていないと言われても、理屈では説明し難いしこりが残る。
「ルルーシュ」
「はい?」
「なに止まってるの?」
「……?」
「手。せっかくの料理が冷めてしまうよ?」
「ああ……」
肉の切れ端を口に運びながら、スザクが上目遣いで俺を見た。大口で男らしいが、綺麗な食べ方だ。
「少し、考え事をしていて」
「それで、手が止まっていた?」
「ええ」
育ちや品の良さを感じさせるマナーの良さに、以前調べたスザクの経歴を思い出す。
故・枢木首相の一人息子。……そういえば、由緒正しい家の出身だったか。
「どんなこと?」
「今日、目覚めてからずっと考えていたんです」
「うん?」
「貴方のことを、もっとよく知りたいと」
「……俺のこと?」
スザクの動きがはた、と止まった。
「ええ。前にも言いましたけど、貴方は不思議な人だから……。どこかが近いように思えてならないんです、貴方と俺は。性格は全く違うかもしれないけど、初めて出会ったその時から――いえ、本当はその前からずっと、俺は貴方との間に他人とは思えない何かを感じていた。だから、聞かせて欲しいなと思って。スザク自身のこと」
「…………」
スザクは俺が話している間、食事の手を休めたまま、考えの読めない無表情で俺の顔を見つめていた。
やがて、僅かな沈黙を挟んでから「そうだな」とひとりごちる。
「俺も君と同じく、両親とももういないよ。実家はまだあるけど、軍に入ってからは一度も戻っていないし。勘当同然、っていうのかな」
「縁を切っている、ということですか?」
「親族とはね。両親については二人とも亡くなっているんだ」
「そう、ですか……お母様も」
「母は、俺がまだ赤ん坊だった頃に」
「…………」
だからだろうか、と俺は思った。
初対面にも関わらず、俺の過去について親身になって聞いてくれたのも、スザクにとって、少なからず幼い頃からの境遇に似通った点があると感じたからなのだろうか。
同種の人間が、相手との間に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ることがあるように。……だとすれば、あの時スザクに対して感じた直感についても得心がいく。
求められている。欲されていると、言葉も無く本能だけで全てを解り合えた、あの感覚についても。
「君は俺のこと、どこまで知っているんだ?」
「どこまでって?」
「たとえば、このエリア11出身といったようなことの他に」
俺に問いかけながら、スザクはオレンジジュースを注いでいた。
グラスを傾け、一口呷る際に眇められた目元。ごくごくと音を立てて飲む度に上下する喉仏。
ついさっき肉を食べている姿を見た時にも思ったことだが、とにかく自分とは違って、一つ一つの動作が男らしくて目を奪われる。
洗練された優雅さとは質の異なる野生的な色気というのだろうか……つくづく何をしていても様になる男だ。
スザクに気付かれぬうちにと視線を逸らした俺は、いかにも魅入ってなどいなかった風を装いつつスズキの包み焼きにナイフを入れた。
「貴方は有名人ですから。――と、いうのは嘘で。本当は調べたんです。貴方に出会う前に」
「調べた?」
何故? と問いたげな眼差しを向けてくるスザクに、俺は黙々と口を動かしながら一度だけ首肯して見せた。
「ネットで拾える情報だけですけど……貴方を好きになった時に、どんな人なのかなと思って」
「それで、俺の出自を?」
「経歴もです。プロフィールのようなものも含めて、自分で調べられる限りのことを」
「…………」
その場に、やや気まずい沈黙が落ちる。カトラリーを操る音だけが時折響くのが有難く思えた。
別に、打ち明けられたところで特に喜ばしい話ではあるまい。それどころか、どうともリアクションのとりようが無いだろう。
戸惑うスザクの様子に無理もないと思いながら、俺は言葉を続けた。
「こんなことバラされても気持ち悪いだけですよね。もし不快だったら謝ります」
「気持ち悪いだなんて……どうしてそんなことを言うの?」
「俺、どうしてスザクだったのかなって気になっちゃって。俺は男で、スザクも男なのに……それがどうしても不思議で」
「人を好きになるのに性別は関係ないだろ?」
「そういう意味じゃなく……。男だからとか女だからとか、それだけじゃなくて……スザクだったのは、どうしてかっていう意味ですよ」
「……ああ、そういうこと?」
スザクは手元に視線を落としてからポタージュの皿を引き寄せ、スプーンを手に取った。
「俺の出自や経歴の他に、何か知りたいことはあった?」
「ええ。貴方の気持ちを」
「――俺の気持ち?」
「ええ。何を考えて、どんな風に生きてきたのか。略歴だけでは解らない貴方自身のことを、いつか話してもらえたらいいなって……。俺と貴方は、その……ずっと一緒にいられる訳ではないと思うから……」
「ルルーシュ……」
スザクの声に滲むやるせなさ。
低く沈んだその声に、俺の気分も滅入る。又しても考えなしに重い話を振ってしまったと、俺はたちどころに後悔した。
本当は昼食の折にそれとなく、あくまでもスザクにとって負担にならない形で切り出す予定だったのに、またやってしまった。
これでは遠回しに責める物言いに聞こえてしまってもおかしくはない。実際は、全くそんなつもりではなかったのだが……。
「朝から話すことではありませんでしたよね。忘れて下さい」
取り成すつもりで俺が苦笑すると、スザクは無言で首を振る。
「そんなことはないよ。君にそう言ってもらえるのは凄く嬉しい。有難う、ルルーシュ」
スザクはそう言い置いてから「でも」と続けた。
「誰かから理解されたいとか、そういうのはもういいんだ。昔、一人だけ認めてくれた人がいたから……。それに、君も知ってる通り俺は軍人で――元々、罪人だ。だから、君にとって聞いて面白いと思えることなんか何も無いと思う。……それでもいいのか?」
「――――」
刹那、吸い込む空気が針になった。
飲み込んだ鋭利な棘が心臓に到達するなり、もう抜けない深部まで食い込んだのだとはっきり気付く。
昔、一人だけ認めてくれた人がいたから。
何故か、その言葉が耳の奥にこびり付いたまま離れなかった。
スザクは瞬きも忘れて自失する俺を余所に、ポタージュを一口飲んでから「これも美味しいな」と呟く。……でも、俺にはそれが、どことなくそらぞらしさを含んだ響きであるようにしか感じられなかった。
さりげなく話を逸らすための修辞(レトリック)。つい今しがた開いたばかりの心の穴に、寒々しい風が吹き抜けていく。
「それでも知りたいんです。貴方が嫌じゃなければ」
「…………」
カチャリ、と音を立てて、スプーンを持つスザクの手が止まった。言い募る俺を穴が開きそうなほど見つめてから視線を落としたスザクは、スプーンを皿の中に沈めたまま動かない。
そうして、僅かに揺れる瞳で俺を見た。
今にも「弱ったな」と言い出しそうな淡い笑顔。……言われなくても解った。明らかに渋られている。
本心を隠した拒絶の笑顔。これ以上、俺に深入りされることを避けるための――。
けれど、迷惑そうというよりは、どちらかというと申し訳なさそうに見えるのは気のせいだろうか。
頑なに閉ざした心の扉。その奥で、どこか疚しさを感じている印象を拭い切れないのは……。
躊躇うスザクを前に、いっそ訊いてしまおうか、と俺は思った。
誰にも理解を求めていないというのなら、俺はどうすればいいのかと。
ただ黙って見ていればいいというのだろうか。スザクが今尚癒えぬ傷に苦しんでいるところを。
傍に居る俺に出来ることは、何も無いのか。それは暗に、お前はそこに居てもいなくても同じことだと言われているのと、何も変わらないんじゃないのか?
スザクは、俺に何を求めているんだろう。俺を傍に置こうとする理由は? そもそも、これは本当に求められ、欲されているうちに入るのだろうか。
何の為に、俺を抱いたんだ? 一体、俺に何を――。
今すぐにでも問い詰めてしまいたいと逸る心を押し止めながら、俺は漏れそうになる溜息を無理やり飲み込んだ。
……解っている。スザクからすれば、自分の過去など、他人に打ち明けたい部類の話題では無いのだと。
『どんな些細なことであっても聞くよ。だから、何でも隠さず俺に打ち明けてくれ』
俺は、スザクにそう言われて救われたように感じたけれど、万人が万人、俺と同じように感じるとは限らない。
ましてやスザクは、自分ひとりであっても背負うに重い過去を、他の誰かへと分け与えることで救われようとする人でも無いのかもしれない。
……それでも、間違っているだろうか。スザクが抱えている筈の痛みや苦しみを、共有させて欲しいと望むのは。
「俺では駄目ですか?」
「え――?」
「話す相手が俺では、貴方にとっては……」
続く言葉は声にならなかった。
俺では、スザクにとって打ち明けたい相手には、なり得ない?
ずっと共にいられる相手でもないというのとは別の意味合いで――もっと大切な相手が。スザクにとって、自分の全てを共有したいと思える相手は他に居て、それは、俺ではないからか?
「ルルーシュ……」
痛ましげな目で俺を見るスザクから、俺は顔を背けた。
咎めるようなその響き。とてもではないが直視出来ない。答えを聞くのが怖い。
……だって、俺はまだ自信が無い。
スザクの心の大部分を占めているのは、今目の前に座っている俺ではなく、本当はあの『大切な友達』。もしくは、喪ってしまった『かけがえのない女性』のことなのかもしれないと、もう気付いているから。
過去に拘るのも仕方の無いことだと解ってはいるけれど、どうしようもなくもどかしい。
スザクに向かう貪婪なこの思いに気付かれたくは無い。女々しく一方的に求めるばかりの醜さなど、いっそどこかに投げ打ってしまいたい。
別に、構わなかった。スザクを追い詰めたい訳じゃない。
何もしてくれなくていい。俺のことなんかどう思っていたって構わない。
――本当に、どうでもいいんだ。貴方が笑ってくれるなら……たとえ、それが俺の隣じゃなかったとしても。
だって、それがスザクに会いたいと思った俺の、ほんとうの望みだったんだから……。
「やめましょう、もう、この話は……。変なことを言ってしまってすみません。忘れて下さい、本当に」
言いながら、俺は気を取り直すように食事を再開した。
テリーヌにナイフを入れ、一口運ぶ。けれど、好物の海老が入っているのに味などほとんど解らなかった。
……もし、俺がたった今感じた通り、スザクが俺に何一つ求めていなかったのだとしたら――認めたくは無いが、それはきっと、俺の心を要らないと言っているも同然のことなのかもしれない。
それともスザクは、自身の苦しみは誰とも共有し得ないものなのだと、疾うに達観しているのだろうか。そこまで遠いところに、もう行ってしまっているのか?
やはり、スザクの欠けた部分を埋めることが出来るのは、俺ではなく――。
瞬間、異物を詰まらせたかのように喉が嘔吐いた。砂を噛む心地で何とか嚥下し、新しいグラスを取ってからジュースのピッチャーへと手を伸ばす。
「あ……」
察したスザクの方が早かった。さっと伸びた手が取っ手を掴んで代わりに手渡そうとしてくる。
「――――」
少し考えてから、俺は緩く首を振ることで断った。やり場を無くした手を引っ込めて浮きかけた腰を椅子に落ち着け、深く座り直してからミルクのグラスを傾ける。
その一部始終を、スザクは静かな眼差しでじっと見守っていた。
……もし、全部俺の想像通りだったとしたら、俺に出来ることは、たった一つだけだ。
スザクの苦しみを、その痛みを分け与えてもらうことを望むのではなく、せめて俺と一緒に居る間だけは忘れられるよう、少しでも癒されるよう、出来得る限り明るく振舞うことのみ。
そう思いながら、俺は捨てられた子犬のような目で俺を見つめていたスザクににっこりと笑いかけた。……すると、強張った真顔がゆっくりと解けて、スザクもぎこちなく笑い返してくる。
――ああ。
やっぱり、どうしようもなく、この人が好きだ。
笑顔を見るなり緩みそうになった涙腺を、俺は辛うじて押し留めた。
スザクが俺に対して本気でないのなら、いずれ「ほんものの相手」が現れた時に冷めるだろう。
……その考えは、予想以上の痛手を俺の心に与えた。
もしくは、その相手を失ってしまったからこそ、スザクは俺で代用しようとしているのだろうか。もう二度と塞がることの無い心の欠落を埋めるために。
スザクは、何故俺を抱いたんだろう。執着の強さを示す証にさえ思えるほどの、無数の所有印。それを俺の全身へと残すほどの、あの激しさは……?
全ての疑問の源は、そこにあるように思えた。
浴室で鏡を見て混乱に陥った時のことを考えながら、ふと、グラスを持つ手が止まった。
……疑問といえば、俺自身の体についても不思議に思えることがある。
さっきシャワー中に人知れず醜態を晒した後から、ずっと気になって考え続けていたことだ。
食事中に考えることでは決してはない。でも、出来ることならどう思うかスザクに意見を仰ぎたかった。俺一人で答えを出すには、これはどうにも難しい問題のように思えてならないからだ。
まだたったの二回しか寝ていないのに、俺は何故か、もう抱かれることに慣れているような気がする――。
……勿論、気持ちの上では決してそうではない。行為の時は死ぬほど恥ずかしいし、簡単な接触はおろか、会話をする時でさえ未だに緊張する。
けれども、体の方が――。
そんな馬鹿な話があるかとは自分でも思う。正真正銘、初恋で初体験。スザク以外の誰とも、体を重ねることなどしていない。
勘違いだ。単なる妄想。でなければ、思い込みから来る錯覚の類に過ぎない。……しかし、そう解っていながら、消せない染みの如く疑念が湧き上がってくる。
全く知らない筈なのに、知っている感覚。
本来受け入れる作りではない場所を使って繋がっているというのに……俺は一度目も、そして二度目も、痛みどころか違和感らしきものすら感じなかった。
……どころか、俺は初回から、身体のもっと奥深い部分で――。
「ルルーシュ」
「はいっ!?」
唐突に呼ばれて飛び上がりそうになった。
俺も驚いたが、スザクはもっと驚いたようだ。大袈裟すぎる俺の反応に団栗眼をぱちぱちと瞬かせながら呆気にとられている。
「また考え事?」
「違うんです、これは――」
「なんだか様子が変だよ。さっきからずっとぼんやりしてるし、口数も少ないし。……それも俺が原因、なのかな」
「いえ、そういう訳じゃ……」
「悩んでるんだろう? 本当は。まだ気になってることがあるなら、隠さなくていいから全部話してごらん」
スザクはスプーンを傍らに置き、真剣な顔つきになって改まってくる。
そんな風に優しくしないで欲しい。スザクの優しさは残酷だ。
……でも、どうしよう。
眉根を寄せて完全に聞く体勢になっているスザクを前に、俺は今感じている疑問について打ち明けるべきかどうかぐるぐると悩んだ。
言った方がいいのか。正直に全部話して、相談してしまった方がいいんだろうか。
だけど、どうやって――?
「あの、実はどう説明すればいいのか、俺にもまだ……」
「纏まっていなくてもいいよ。ちゃんと聞くから」
話しているうちに伝えられるようになるかもしれないだろう? とスザクは優しい声音で諭してくる。
尤もな意見だとは思うが、俺は羞恥とばつの悪さ、そして気遣わせてしまっている居た堪れなさと後ろめたさとが混然一体となった感情を持て余しつつ、内心派手に取り乱してしまっていた。
最初は、スザクが慣れているからなのだろうとばかり思っていた。けれど、二度目の行為を終えてから初めて抱かれた時のことを反芻してみると、改めてその異常さに気付く。
何が何だか解らないうちに終わったとはいえ、与えられる快楽がどれ程のものなのか、俺は既に知っている……そんな感じさえあった。
あの行為には、向き不向きでもあるのだろうか。でなければ説明がつかない。
一応、知識として知ってはいた。恋した相手がスザク――つまり、同性だったから。
スザクに抱いているのが恋心だと悟った時に、ネットで少しだけ調べた。というのも、自分が本当に同性愛者なのかどうか知りたくなったからだ。
流し見した情報の中に、確かあの行為のことも書いてあったように思う。色々と耐え切れなくなって途中で投げ出してしまったが、きちんと読んでおけばよかったと今更のように後悔する。
――でも……最初からあんな……。可能なのだろうか……。
あれは……俺のあの反応は、普通のことなのか?
本能に期待がプラスされた時の自然な反応。
今までは、勝手にそう解釈して結論付けていたけれど……。
「ルルーシュ」
「?」
不意に、スザクの声が固くなった。
何事かと思って視線を上げれば、疑惑の針で突き刺すような眼差しに真っ向から射抜かれる。
「俺には言えないことか?」
「! 違います……!」
その言い回しにハッとして、俺は慌ててかぶりを振った。
厳しい表情にもみえるけれど、そうじゃない。――これは、スザクの心に残る生傷が疼いている時の顔だ。
「隠し事ではないんです」
これ以上スザクに変な誤解をさせたくない。そう思いながら落ち着いた声ではっきり告げると、スザクは顔の前で両手を組んだままスッと目を眇めた。
「それは本当?」
「スザク――」
信用されていないのか。
ショックを受けた俺が非難の意を込めて名を呼べば、スザクは痛みを堪えるように顔をしかめた。力無く「ごめん」と呟いてから組んだ両手を解き、儚い笑みを浮かべて俺を見る。
――どうして……。
スザクの表情を台詞に置き換えるなら「またやってしまった」というところだろうか。
厭世的とも受け取れる疲れを滲ませたスザクに、今度こそ隠しようのない悲しみが押し寄せてくる。
そんなにも忘れられないのか。その『大切な友達』のことを。……受けた裏切りを。傷付いた思いを。
またしても、スザクの世界から弾き出されてしまった。そんな感覚に、俺は酷く切なくなるばかりか、今すぐにでも泣き崩れてしまいたいくらいだった。
その笑顔は「気遣い」としての笑みではない。ただの「拒絶」であり「諦め」の笑みだ。
解っているから。申し訳ないと思っているから。
でも、自分でもどうしようもないんだ。だから、何も言わないで。――そういう意味での。
ここに俺がいるのに。こうやって話しているのに……向き合っているように見えて、スザクは俺と向き合ってなどいない。
重ねてなどいないという台詞が嘘ではないかと、俺が疑っていることにも気付いているだろう?
なのに、踏み込んでこないのか。それとも怖いのか?
……やはり、この人は軍人には向いていない。俺は改めてそう思った。
この人はとても強い人だけれど、それ以上に、本当はとても傷付き易くて弱い人なのかもしれない。
脆くて繊細で、怖がりで。すぐに心を閉じて一人きりになろうとする。……本当は、そういう人なのではないか?
スザクはとても臆病だ。多分俺に踏み込まれるのも怖いのだろう。
それに、凄く頑固だ。
自分一人で抱え切れないなら抱え切れないと言えばいい。――それとも、自分など壊れてしまってもいいというのだろうか。
俺は好きだ、愛していると伝えたはずだ。嘘を吐かれても構わないし、俺は貴方にだけは嘘は吐かない。そうも言った。
それなのに、その思いさえ無視して、自分勝手に壊れてしまうことを選ぼうとしているのか?……だとしたら、スザクはあまりにも頑な過ぎる。
自分と似ている部分があると思うからこそ、一瞬、初めてスザクに対して苛立ちを覚えた。
まるで頑是無い子供のようだ。
自分に罰を与えるかのように、スザクはわざわざ自分自身を辛くしていく。
部屋の隅に縮こまって、閉じた扉に向かって背を向けて、誰かに優しく頭を撫でてもらって宥められるまで、いつまでも怒った顔をしながら膝を抱えている子供のように。
常に「俺は一人だ」と、自分に言い聞かせているのだろうか。それとも、「俺は一人きりでいなくてはならない」と決めてしまっているのか?
……いや。でなければ、こういった壁の作り方はしないだろう。
「スザク、」
誤解だ。俺が切り離したんじゃない。だから、どうか心を閉じないでくれ。
しかし、思わずそう言いかけた俺の声は、短く「ルルーシュ」と呼ぶスザクの声によって遮られた。
スザクは皿に盛られたパンを一つ掴み、俺の顔を見つめたままそれを千切っている。
「はい」
「?」
「食べて、ルルーシュ」
「――――」
指先で摘まれ、正面から差し出されたそれを、俺はじっと見つめた。一口大に千切られた意図については――何となく理解出来る。
手で受け取って食べようかとも思ったが、俺は僅かに逡巡してから、そろりとスザクへ視線を向けた。
スザクは身を乗り出した俺の顔を真剣な面持ちで凝視しながら、唇にそっとパンの欠片を押し当ててくる。薄く口を開けて銜えると同時にくいっと中に押し込まれ、内心、親鳥から餌を貰う雛のような食べ方だと無性に気恥ずかしくなった。
「…………」
黙って咀嚼している俺を見て、スザクは愁いを含んだ表情で笑っていた。膨らんだ俺の頬をちょん、とつついてから、優しく触れてきた指先が離れていく。
向けられた真摯な眼差しを、俺は真っ向から受け止めた。
――口に出されずとも解る。これは、暗黙の了解。そのための儀式なのだと。
こうした些細なやりとりで、口には出せない何かについて許し合うための……。
つい今しがた、心の内側でスザクを責め、激しく詰ったことを、俺はスザクに向かって声に出さずに詫びていた。
直したいけれど直せなくて、自分でもどうしようもなくて……それでも、自分以外の誰にも抱えることの出来ない欠点なら俺にもある。
頭に血が上り易い己を、俺は恥じた。
拒絶と牽制を押してでも言った方がよかったのか、それとも、こうして引くことこそ正解だったのか判断はつかない。
でも、今は――。
……ともあれ、俺はスザクを好きになった理由を打ち明けたものの、スザクからはまだ、具体的な理由については何も聞かされていない。
スザクはとてもミステリアスで、よく解らない部分が多すぎる。
こんな風に言葉が無くても通じ合い、解り合うことだって出来るのに、とても近くて遠い存在。
初めてその瞳を見た瞬間、心を撃ち抜かれた。一目見た時からずっと会いたいと願っていた人なのに……やっと会えたのに。
それでも、近付くことは未だに怖くて、心に触れようとすれば酷く痛くて――それなのに近付きたい。
この人は難しい人だ。もしこれがゲームやチェスの一局だったとするならば、俺にとってはその方が余程簡単だったことだろう。
茨に覆われた彼の心に寄り添うには、一体どうすればいいのか。
助けられる。自分なら救うことが出来る。そう驕っていられるほど俺は傲慢じゃない。
それでも本当の彼に、スザクに会いたかった。
誰よりも傍に居たいし、居て欲しい。そんなことを思うのもスザクに対してだけだ。
今、目の前に居るのに会いたい。只そればかりを想う。
離れていることの方が不自然で、離れた次の瞬間には、もう会いたい。
二人一緒でなければ寂しくて、切なくて、心のどこかが欠けてしまう。その隙間を満たせる人が、埋められる人こそがスザクなのだと俺は思った。
たとえスザクにとっての俺が欠落を埋められる存在ではなくとも、俺にとっては他の誰でもない、この人でなければ駄目なのだ。
この人にだけは、愛されたい。……だから俺は、スザクを目の前にする度に、いつも焦ってばかりいるのかもしれない。
そして、俺がこんな不安を抱く理由の内の一つが、自分自身やスザクから感じる一連の――あの、謎めいた「慣れ」でもあるのかもしれなかった。
これが「幸せ」というものなのだろうか。
どうしようもないほどの安心感と共に、胸が詰まるような、ぎゅっと締め付けられるような甘苦しい想いが込み上げる。
背に回していいものかと迷う腕をスザクの腰へと回し、陶然と瞼を落としたまま両手を組んでいると、ぴったりと合わせられた胸越しに心臓の鼓動が伝わってきた。
聴覚へと侵食する衣擦れの音や密やかな吐息。
離れなければと思うのに、その全てに意識を掻き乱されて碌に抗えない。
「ルルーシュ」
「はい……」
「キスしていい?」
「――――」
「……するよ?」
「――っ、」
確認というより、寧ろ宣告にも等しい台詞の直後、顎を捕らえてきた手に素早く上向かされ、あっという間に唇を塞がれてしまう。
焦点が合わないほど間近に迫った顔。幼い作りとは裏腹な、野性味を帯びた表情。
目を閉じていても、やはり整っている。今日登校すれば、きっと盛大に騒がれることだろう。――そう思うや否や、胸にズキリと痛みが走った。
嫌な気分だ。
もう何度目かの疼痛に、俺は顔を歪めた。……スザクは俺以外の人と、どんな風に接するんだろう。俺は今日から、スザクが別の誰かと親しくする姿を見なければならないのか。
この人と俺は身分が違う。ずっと一緒に居られる相手ではない。いつか、遠く引き離される日が来てしまう。
だからせめて、俺と一緒に居る間だけは、他の誰でもない俺のことだけを見ていて欲しい……。
閉じた唇を軽く触れ合わせるだけのキスが続いた。啄ばんでは離れていくそのやり方では到底物足りない。
もっと耽溺してしまいたいのに、俺の頭の中は冷えた思考へと傾いていくばかりだった。腰に回していた手を滑らせて背中にしがみ付くと、スザクもそれに応えるかのように腕の力を強めてくる。
降り続いていた口付けが止み、暫くの間、二人無言で抱きしめ合っていた。
触れ合えば触れ合うほど飢えていく。いっそ、誰も入ってこられない二人だけの世界に行ってしまいたい。
誰もこの人に触れないでくれ。俺たちの間に割り込まないでくれ。
……そしてスザクも、決して俺以外の誰かを選んだりしないで欲しい――。
貪婪な自分自身の心に、俺は本気で慄いた。一体今の今までどこにこんな激情が潜んでいたのだろう。
俺はこんなに独占欲の強い性格だっただろうか。自分でも疑問に思えるほど際限が無い。
黙ったまま肩に凭れ掛かっていると、スザクが僅かに身じろいだ。開いた隙間に一歩引きかけたところで腕の力が強くなり、おもむろに伸びてきた手にくい、と額を押されて喉が反る。
再び寄せられてきた唇に導かれるまま、俺は瞼を閉じた。
羽根先を触れ合わせるような互いの息遣い。押し当てられる唇の柔らかさ。
汁の滴る熟れた果実になって、スザクに食べられているみたいだ。
二度、三度と繰り返されるごとに吸い付く強さは増していき、やがて、そっと遠ざかっていく気配に「もう終わりか」と残念に思う。
うっすらと目を開けてスザクを見ると、色味を増した翡翠がじっと俺を見下ろしていた。
何かを訴えかけるような鋭い視線。瞳の奥に立ち昇る、昏いゆらめき。
「……?」
陽炎にも似た揺らぎを目の当たりにして、本能的に身体が竦んだ。据わったスザクの目がどことなく苛立っているように見えて、血の気が下がる。
困惑した俺は、見間違いかと数回瞬いた。――ところが。
「目、閉じて」
短く呟いたスザクの掌が、スッと目元に降りてくる。
「!?」
瞼の上から目頭を覆い隠され、突如として翳る視界。うろたえる俺に構わず、スザクは強制的に俺の視野を封印した。
「――ぅ、んっ!?」
続いて、考えるいとまも与えられぬまま、唐突に深く口付けられて呼吸が止まった。俺の瞼を押さえていたスザクの手が項へと回され、頭を固定するようにぐっと力を込めて押さえつけてくる。
目を瞑った俺が荒々しく割り込む舌を受け入れようと唇を開けば、するりと絡んでくる舌に何もかも奪い尽くす勢いできつく吸い上げられ、脳の芯からぐずぐずに溶かされてしまいそうなほど強烈な痺れが腰に走った。
「んんっ……!」
耳を塞ぎたくなるほど甘ったるい声が喉から漏れる。――自分の声なのに、自分のものではないような。
今のは何だったんだろう。そう思うのに、角度を変えて貪ってくる嵐のようなキスに飲み込まれ、徐々に意識が霞んでいく。
熱くて、甘くて――本気で頭がおかしくなりそうだ。
「……っ、は……」
解放されると同時に、がくんと膝が折れた。
力の抜けた俺の体を片腕で支えながら、スザクが苦笑している。
「大丈夫?」
「そう……見えますか?」
つい出てしまった軽口に、スザクが意外そうに眉を上げながら笑みを深めた。
「それだけ言えるなら平気だろ。……ほら、立って? そろそろ朝ごはん食べよう」
俺の背中をポンと叩いてからくるりと背を向けたスザクは、そのままスタスタと食卓の方へと向かっていく。
まだ煩く跳ね続ける胸を押さえたまま、俺は溜息混じりに離れていく背を見送った。
情熱的なのか素っ気無いのか、よく解らない人だ。……それに、何だったんだろう。さっきの目は。
不可解ではあるものの、わざわざ問いただす訳にもいかない。気のせいだろうと思いたいが、何か嫌な感じのする目だったような――。一瞬のことで、すぐ視界を塞がれてしまったので解らない。
スザクの態度に不審な点は見られなかった。強いて言えば、この素っ気無さだろうか。
でも、さっきの目つきと関連しているなどと考えるのは、さすがに少々突飛でこじつけめいた発想かもしれない。
優しい人であることは間違いないけれど、スザクは時々こうしてあっさり引いてくる。
飴と鞭を一時に与えられる感覚。でなければ、重いだろうと力を込めて持ち上げた荷物が軽かった時のようだ。精一杯身構えていた分、肩透かしを食らった反動は大きい。
そしてスザクは、こちらが気を抜いたその一瞬を見定めたかのように不意打ちしてくるのだった。
たった今されたことにしてもそうだ。意図的なのか無意識なのかは知らないが、俺は毎回その手管に翻弄され続けているような気がする。
多分経験値が違うのだろう。同い年にしてはどうも早熟で、いささか老成し過ぎているようにさえ思える。
こういった態度をひっくるめて「余裕」というのかもしれないが、たった今施されたキス一つ取ってみても、スザクはとにかく全てにおいて「慣れている」ように思えた。
椅子を引きながらチラリとこちらを伺う眦はすまなそうに下げられていて、多少照れ臭そうに映る。少なくともその表情を見ている限りでは、あんな大胆なことを仕掛けてきた人物とはとても思えない。
自分から煽ってきたくせに、申し訳無さそうにするなんて何だかずるい。
少しだけ憎らしくなってきた俺が不満げに眉を寄せると、シャイで大人しそうだった笑顔は、たちまち不敵かつ挑戦的なものへと変化する。
――そういう顔をすると、酷くタチの悪い男のようだ。
スザクが時折見せる二面性。ひやりとさせられる瞬間だった。
癖が強く、アクも強い。……しかし、それでもスザクに抱く印象の良さは不思議と変わらなかった。
恋とはそういうものなんだろうか。根拠を求められても返答に窮する絶対的な信頼。それは、心の奥底に深く根ざした樹木の如く、頑として揺るがない。
けれど、切り替わった空気に名残惜しさと安堵の両方を覚える反面、やはり不安になってくる。
どう見ても、異性に不足している感は無い。それなのに、スザクは何故、同性の俺を……?
浴室で考えていたあれこれが一気に蘇り、また嫌な気分に陥った。
惚れてしまっている以上、悩んでみても仕方がないと解ってはいる。……でも、そう思えば思うほど、より不安は増していくばかりだった。
「何難しい顔してるんだ? 早くおいで」
シンクに手を付いたまま突っ立っている俺に痺れを切らしたのか、スザクはグラスになみなみとミルクを注ぎながら急かしてくる。
「早く食べないと、遅刻しちゃうよ」
スザクは、朝はミルク派なのか。
オレンジジュースではなくミルクを選んだスザクに「俺と同じだ」と思いながら、のろのろと席に着く。
すると、腰を下ろした直後、そのグラスはスザクの前ではなく、コトリと俺の前に置かれた。
「はい、飲んで」
「――――」
びっくりしすぎて思考が途切れてしまった。
至極当然のことのように促してくるスザクの顔とグラスとを交互に見遣ってから、俺はおそるおそるスザクへと問いかける。
「……俺の?」
「うん」
「よく、解りましたね」
「何が?」
「俺、朝はミルクか紅茶派なんです」
今朝はたまたま淹れる時間が無くて用意出来なかったのだが、習慣としてはそうだ。腹に何も入れたくない時でも、一応これだけ飲んでおけば昼までには持つ。
まじまじとスザクの顔を見つめていた俺に、スザクは「そう」と言いながらふわりと笑った。
「昨夜、アルコール飲んでただろ? まずはこれでも飲んで、お腹労わって?」
「…………」
そういう意味か。
穏やかな口調に一応納得する。一瞬「どうして知ってるんだ?」なんて思ってしまった自分に拍子抜けする思いだった。
「胃に来るほど沢山飲んでませんよ」
「いいから」
……強引だ。しかも、何故か逆らえない。そして、それが嫌じゃないから尚困る。
有無を言わせぬ口調に押されて、俺は渋々グラスを口に運んだ。冷たいミルクが食道を通り抜け、動き始めた胃袋が今まで感じなかった空腹をようやく訴えてくる。
飲み終えてから一息つき、テーブルにグラスを置いたところでスザクと目が合った。……どうやら見られていたらしい。
と、そこで、何故か寂しげに瞳を細めているスザクの表情に目が釘付けになる。
遠いどこかへと思いを馳せるような。そして、もう二度と還らない何かを懐かしんでいるかのような。
――寂寥。哀惜。
ふと、そんな言葉が頭を過ぎった。
ただ見ているだけで胸が痛くなるほど切ない微笑みに、喉が詰まる。
――どうして、そんな顔をして俺を見る……?
問いかけようとした俺が言葉を発する前に、スザクはすっと瞼を伏せた。
「いただきます」
何事も無かったかのように一言告げてから食事を始めるスザクの姿は、ほんの束の間、世界から切り離された一枚の絵画となった。
急激に時の流れが遅くなり、音という音が遠ざかっていく。
まだテレビでしか彼の姿を見られなかった頃のことを、俺は唐突に思い出した。
現実味の失せた世界の中で、ゆっくりと閉じていく心。……いけない。でも―――弾き出されたのは、多分俺の方だ。
鴨肉にナイフを入れるスザクの手元を、俺は出来の悪い映画を傍観する心地でぼんやりと眺めていた。
……今、スザクは、誰を見ていたんだ?
途端、水面に落とした一滴のインクの如く、胸にじわりと広がる黒い思い。
確信があった。直感と言い換えてもいいかもしれない。
スザクは、俺を通して、別の誰かを見ている。
重ねられている。俺以外の誰か……おそらく、例の『友達』に。
堂々巡りだと知っていながら、またも留まることなく疑問が噴き出した。
憎んでいるんじゃ、なかったのか……? 少なくとも、憎悪していると言った者の顔つきではない。今の表情は。
惑う心の片隅で、初めてスザクと身体を重ねた時の会話が蘇った。
『愛の反対は無関心、って言っただろ』
『はい』
『……なら、憎しみの反対って何なんだ?』
『それは、慈しみです』
喩えて言うなら――そう。
『慈しみという言葉の意味は、慈愛です』
「――――」
立て続けに、昨夜交わしたやり取りまでもが走馬灯の如く駆け抜けていく。
『誰よりもよく知っていると思っていたよ、彼のこと。幼い頃からずっと、この年になってからも――裏切られるまでは』
『もう戻れないんですか? その人とは』
『そうだな。やり直すことは出来ない。俺も彼も』
――間違いない。
スザクは惜しんでいる。今も。『大切な友達』との記憶を。
幼い頃からということは、長い付き合いだったのだろう。幼馴染みとして、また、気の置けない親友として誰よりも近くで。
父親が早逝し、どことなく家族の縁が薄い印象のあるスザク。あるいは、彼にとっては血の繋がりよりも濃い存在だったのかもしれない。
具体的に、どこがどう似ているというのだろう。顔貌か、性格か、それとも仕草や表情か……それとも、もっと複合的な要素が絡み合って、俺とその『友達』を似通った者として見せているのだろうか。
たとえば癖や習慣等、俺自身が意識していない部分が似ている場合だってあるだろう。
だが、それが俺を選んだ理由だというのなら、辻褄が合わない。
スザクは初対面で『君がいい』と言ったのだ。あの時点からスザクの中で過去との邂逅が始まっていたというのなら、俺がいいと言った理由は外見に纏わるものでなければおかしい。
それに、癖や習慣まで似ているということは、つまり、生活の仕方、ひいては俺の人となりそのものに重なる点があるということ……。
――馬鹿な。そこまで都合のいい偶然の一致など有り得ない。第一、そんな細かい部分など、一目見ただけで解ったりするものか。消去法でその線は消える。
スザクと俺がこういう関係に至ったのも、互いの間に深い理解があったからだ。一瞬で全てを解り合えうことが出来た――そう思えるほどの。
惹かれ合う何かを感じ、在るべき所に収まるかのように、自然と魂が寄り添った。……その感覚だけだ。今の俺とスザクとを繋ぐ唯一の糸は。
スザクの『友達』について何も知らない俺には、似ている部分がどこなのかさえ推し量ることが出来ない。
よりにもよって、わざわざ憎い友達に似ている俺を選ぶ理由がどこにあるのか。
俺を相手にしようとする、スザクの真意が掴めなかった。重ねていないと言われても、理屈では説明し難いしこりが残る。
「ルルーシュ」
「はい?」
「なに止まってるの?」
「……?」
「手。せっかくの料理が冷めてしまうよ?」
「ああ……」
肉の切れ端を口に運びながら、スザクが上目遣いで俺を見た。大口で男らしいが、綺麗な食べ方だ。
「少し、考え事をしていて」
「それで、手が止まっていた?」
「ええ」
育ちや品の良さを感じさせるマナーの良さに、以前調べたスザクの経歴を思い出す。
故・枢木首相の一人息子。……そういえば、由緒正しい家の出身だったか。
「どんなこと?」
「今日、目覚めてからずっと考えていたんです」
「うん?」
「貴方のことを、もっとよく知りたいと」
「……俺のこと?」
スザクの動きがはた、と止まった。
「ええ。前にも言いましたけど、貴方は不思議な人だから……。どこかが近いように思えてならないんです、貴方と俺は。性格は全く違うかもしれないけど、初めて出会ったその時から――いえ、本当はその前からずっと、俺は貴方との間に他人とは思えない何かを感じていた。だから、聞かせて欲しいなと思って。スザク自身のこと」
「…………」
スザクは俺が話している間、食事の手を休めたまま、考えの読めない無表情で俺の顔を見つめていた。
やがて、僅かな沈黙を挟んでから「そうだな」とひとりごちる。
「俺も君と同じく、両親とももういないよ。実家はまだあるけど、軍に入ってからは一度も戻っていないし。勘当同然、っていうのかな」
「縁を切っている、ということですか?」
「親族とはね。両親については二人とも亡くなっているんだ」
「そう、ですか……お母様も」
「母は、俺がまだ赤ん坊だった頃に」
「…………」
だからだろうか、と俺は思った。
初対面にも関わらず、俺の過去について親身になって聞いてくれたのも、スザクにとって、少なからず幼い頃からの境遇に似通った点があると感じたからなのだろうか。
同種の人間が、相手との間に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ることがあるように。……だとすれば、あの時スザクに対して感じた直感についても得心がいく。
求められている。欲されていると、言葉も無く本能だけで全てを解り合えた、あの感覚についても。
「君は俺のこと、どこまで知っているんだ?」
「どこまでって?」
「たとえば、このエリア11出身といったようなことの他に」
俺に問いかけながら、スザクはオレンジジュースを注いでいた。
グラスを傾け、一口呷る際に眇められた目元。ごくごくと音を立てて飲む度に上下する喉仏。
ついさっき肉を食べている姿を見た時にも思ったことだが、とにかく自分とは違って、一つ一つの動作が男らしくて目を奪われる。
洗練された優雅さとは質の異なる野生的な色気というのだろうか……つくづく何をしていても様になる男だ。
スザクに気付かれぬうちにと視線を逸らした俺は、いかにも魅入ってなどいなかった風を装いつつスズキの包み焼きにナイフを入れた。
「貴方は有名人ですから。――と、いうのは嘘で。本当は調べたんです。貴方に出会う前に」
「調べた?」
何故? と問いたげな眼差しを向けてくるスザクに、俺は黙々と口を動かしながら一度だけ首肯して見せた。
「ネットで拾える情報だけですけど……貴方を好きになった時に、どんな人なのかなと思って」
「それで、俺の出自を?」
「経歴もです。プロフィールのようなものも含めて、自分で調べられる限りのことを」
「…………」
その場に、やや気まずい沈黙が落ちる。カトラリーを操る音だけが時折響くのが有難く思えた。
別に、打ち明けられたところで特に喜ばしい話ではあるまい。それどころか、どうともリアクションのとりようが無いだろう。
戸惑うスザクの様子に無理もないと思いながら、俺は言葉を続けた。
「こんなことバラされても気持ち悪いだけですよね。もし不快だったら謝ります」
「気持ち悪いだなんて……どうしてそんなことを言うの?」
「俺、どうしてスザクだったのかなって気になっちゃって。俺は男で、スザクも男なのに……それがどうしても不思議で」
「人を好きになるのに性別は関係ないだろ?」
「そういう意味じゃなく……。男だからとか女だからとか、それだけじゃなくて……スザクだったのは、どうしてかっていう意味ですよ」
「……ああ、そういうこと?」
スザクは手元に視線を落としてからポタージュの皿を引き寄せ、スプーンを手に取った。
「俺の出自や経歴の他に、何か知りたいことはあった?」
「ええ。貴方の気持ちを」
「――俺の気持ち?」
「ええ。何を考えて、どんな風に生きてきたのか。略歴だけでは解らない貴方自身のことを、いつか話してもらえたらいいなって……。俺と貴方は、その……ずっと一緒にいられる訳ではないと思うから……」
「ルルーシュ……」
スザクの声に滲むやるせなさ。
低く沈んだその声に、俺の気分も滅入る。又しても考えなしに重い話を振ってしまったと、俺はたちどころに後悔した。
本当は昼食の折にそれとなく、あくまでもスザクにとって負担にならない形で切り出す予定だったのに、またやってしまった。
これでは遠回しに責める物言いに聞こえてしまってもおかしくはない。実際は、全くそんなつもりではなかったのだが……。
「朝から話すことではありませんでしたよね。忘れて下さい」
取り成すつもりで俺が苦笑すると、スザクは無言で首を振る。
「そんなことはないよ。君にそう言ってもらえるのは凄く嬉しい。有難う、ルルーシュ」
スザクはそう言い置いてから「でも」と続けた。
「誰かから理解されたいとか、そういうのはもういいんだ。昔、一人だけ認めてくれた人がいたから……。それに、君も知ってる通り俺は軍人で――元々、罪人だ。だから、君にとって聞いて面白いと思えることなんか何も無いと思う。……それでもいいのか?」
「――――」
刹那、吸い込む空気が針になった。
飲み込んだ鋭利な棘が心臓に到達するなり、もう抜けない深部まで食い込んだのだとはっきり気付く。
昔、一人だけ認めてくれた人がいたから。
何故か、その言葉が耳の奥にこびり付いたまま離れなかった。
スザクは瞬きも忘れて自失する俺を余所に、ポタージュを一口飲んでから「これも美味しいな」と呟く。……でも、俺にはそれが、どことなくそらぞらしさを含んだ響きであるようにしか感じられなかった。
さりげなく話を逸らすための修辞(レトリック)。つい今しがた開いたばかりの心の穴に、寒々しい風が吹き抜けていく。
「それでも知りたいんです。貴方が嫌じゃなければ」
「…………」
カチャリ、と音を立てて、スプーンを持つスザクの手が止まった。言い募る俺を穴が開きそうなほど見つめてから視線を落としたスザクは、スプーンを皿の中に沈めたまま動かない。
そうして、僅かに揺れる瞳で俺を見た。
今にも「弱ったな」と言い出しそうな淡い笑顔。……言われなくても解った。明らかに渋られている。
本心を隠した拒絶の笑顔。これ以上、俺に深入りされることを避けるための――。
けれど、迷惑そうというよりは、どちらかというと申し訳なさそうに見えるのは気のせいだろうか。
頑なに閉ざした心の扉。その奥で、どこか疚しさを感じている印象を拭い切れないのは……。
躊躇うスザクを前に、いっそ訊いてしまおうか、と俺は思った。
誰にも理解を求めていないというのなら、俺はどうすればいいのかと。
ただ黙って見ていればいいというのだろうか。スザクが今尚癒えぬ傷に苦しんでいるところを。
傍に居る俺に出来ることは、何も無いのか。それは暗に、お前はそこに居てもいなくても同じことだと言われているのと、何も変わらないんじゃないのか?
スザクは、俺に何を求めているんだろう。俺を傍に置こうとする理由は? そもそも、これは本当に求められ、欲されているうちに入るのだろうか。
何の為に、俺を抱いたんだ? 一体、俺に何を――。
今すぐにでも問い詰めてしまいたいと逸る心を押し止めながら、俺は漏れそうになる溜息を無理やり飲み込んだ。
……解っている。スザクからすれば、自分の過去など、他人に打ち明けたい部類の話題では無いのだと。
『どんな些細なことであっても聞くよ。だから、何でも隠さず俺に打ち明けてくれ』
俺は、スザクにそう言われて救われたように感じたけれど、万人が万人、俺と同じように感じるとは限らない。
ましてやスザクは、自分ひとりであっても背負うに重い過去を、他の誰かへと分け与えることで救われようとする人でも無いのかもしれない。
……それでも、間違っているだろうか。スザクが抱えている筈の痛みや苦しみを、共有させて欲しいと望むのは。
「俺では駄目ですか?」
「え――?」
「話す相手が俺では、貴方にとっては……」
続く言葉は声にならなかった。
俺では、スザクにとって打ち明けたい相手には、なり得ない?
ずっと共にいられる相手でもないというのとは別の意味合いで――もっと大切な相手が。スザクにとって、自分の全てを共有したいと思える相手は他に居て、それは、俺ではないからか?
「ルルーシュ……」
痛ましげな目で俺を見るスザクから、俺は顔を背けた。
咎めるようなその響き。とてもではないが直視出来ない。答えを聞くのが怖い。
……だって、俺はまだ自信が無い。
スザクの心の大部分を占めているのは、今目の前に座っている俺ではなく、本当はあの『大切な友達』。もしくは、喪ってしまった『かけがえのない女性』のことなのかもしれないと、もう気付いているから。
過去に拘るのも仕方の無いことだと解ってはいるけれど、どうしようもなくもどかしい。
スザクに向かう貪婪なこの思いに気付かれたくは無い。女々しく一方的に求めるばかりの醜さなど、いっそどこかに投げ打ってしまいたい。
別に、構わなかった。スザクを追い詰めたい訳じゃない。
何もしてくれなくていい。俺のことなんかどう思っていたって構わない。
――本当に、どうでもいいんだ。貴方が笑ってくれるなら……たとえ、それが俺の隣じゃなかったとしても。
だって、それがスザクに会いたいと思った俺の、ほんとうの望みだったんだから……。
「やめましょう、もう、この話は……。変なことを言ってしまってすみません。忘れて下さい、本当に」
言いながら、俺は気を取り直すように食事を再開した。
テリーヌにナイフを入れ、一口運ぶ。けれど、好物の海老が入っているのに味などほとんど解らなかった。
……もし、俺がたった今感じた通り、スザクが俺に何一つ求めていなかったのだとしたら――認めたくは無いが、それはきっと、俺の心を要らないと言っているも同然のことなのかもしれない。
それともスザクは、自身の苦しみは誰とも共有し得ないものなのだと、疾うに達観しているのだろうか。そこまで遠いところに、もう行ってしまっているのか?
やはり、スザクの欠けた部分を埋めることが出来るのは、俺ではなく――。
瞬間、異物を詰まらせたかのように喉が嘔吐いた。砂を噛む心地で何とか嚥下し、新しいグラスを取ってからジュースのピッチャーへと手を伸ばす。
「あ……」
察したスザクの方が早かった。さっと伸びた手が取っ手を掴んで代わりに手渡そうとしてくる。
「――――」
少し考えてから、俺は緩く首を振ることで断った。やり場を無くした手を引っ込めて浮きかけた腰を椅子に落ち着け、深く座り直してからミルクのグラスを傾ける。
その一部始終を、スザクは静かな眼差しでじっと見守っていた。
……もし、全部俺の想像通りだったとしたら、俺に出来ることは、たった一つだけだ。
スザクの苦しみを、その痛みを分け与えてもらうことを望むのではなく、せめて俺と一緒に居る間だけは忘れられるよう、少しでも癒されるよう、出来得る限り明るく振舞うことのみ。
そう思いながら、俺は捨てられた子犬のような目で俺を見つめていたスザクににっこりと笑いかけた。……すると、強張った真顔がゆっくりと解けて、スザクもぎこちなく笑い返してくる。
――ああ。
やっぱり、どうしようもなく、この人が好きだ。
笑顔を見るなり緩みそうになった涙腺を、俺は辛うじて押し留めた。
スザクが俺に対して本気でないのなら、いずれ「ほんものの相手」が現れた時に冷めるだろう。
……その考えは、予想以上の痛手を俺の心に与えた。
もしくは、その相手を失ってしまったからこそ、スザクは俺で代用しようとしているのだろうか。もう二度と塞がることの無い心の欠落を埋めるために。
スザクは、何故俺を抱いたんだろう。執着の強さを示す証にさえ思えるほどの、無数の所有印。それを俺の全身へと残すほどの、あの激しさは……?
全ての疑問の源は、そこにあるように思えた。
浴室で鏡を見て混乱に陥った時のことを考えながら、ふと、グラスを持つ手が止まった。
……疑問といえば、俺自身の体についても不思議に思えることがある。
さっきシャワー中に人知れず醜態を晒した後から、ずっと気になって考え続けていたことだ。
食事中に考えることでは決してはない。でも、出来ることならどう思うかスザクに意見を仰ぎたかった。俺一人で答えを出すには、これはどうにも難しい問題のように思えてならないからだ。
まだたったの二回しか寝ていないのに、俺は何故か、もう抱かれることに慣れているような気がする――。
……勿論、気持ちの上では決してそうではない。行為の時は死ぬほど恥ずかしいし、簡単な接触はおろか、会話をする時でさえ未だに緊張する。
けれども、体の方が――。
そんな馬鹿な話があるかとは自分でも思う。正真正銘、初恋で初体験。スザク以外の誰とも、体を重ねることなどしていない。
勘違いだ。単なる妄想。でなければ、思い込みから来る錯覚の類に過ぎない。……しかし、そう解っていながら、消せない染みの如く疑念が湧き上がってくる。
全く知らない筈なのに、知っている感覚。
本来受け入れる作りではない場所を使って繋がっているというのに……俺は一度目も、そして二度目も、痛みどころか違和感らしきものすら感じなかった。
……どころか、俺は初回から、身体のもっと奥深い部分で――。
「ルルーシュ」
「はいっ!?」
唐突に呼ばれて飛び上がりそうになった。
俺も驚いたが、スザクはもっと驚いたようだ。大袈裟すぎる俺の反応に団栗眼をぱちぱちと瞬かせながら呆気にとられている。
「また考え事?」
「違うんです、これは――」
「なんだか様子が変だよ。さっきからずっとぼんやりしてるし、口数も少ないし。……それも俺が原因、なのかな」
「いえ、そういう訳じゃ……」
「悩んでるんだろう? 本当は。まだ気になってることがあるなら、隠さなくていいから全部話してごらん」
スザクはスプーンを傍らに置き、真剣な顔つきになって改まってくる。
そんな風に優しくしないで欲しい。スザクの優しさは残酷だ。
……でも、どうしよう。
眉根を寄せて完全に聞く体勢になっているスザクを前に、俺は今感じている疑問について打ち明けるべきかどうかぐるぐると悩んだ。
言った方がいいのか。正直に全部話して、相談してしまった方がいいんだろうか。
だけど、どうやって――?
「あの、実はどう説明すればいいのか、俺にもまだ……」
「纏まっていなくてもいいよ。ちゃんと聞くから」
話しているうちに伝えられるようになるかもしれないだろう? とスザクは優しい声音で諭してくる。
尤もな意見だとは思うが、俺は羞恥とばつの悪さ、そして気遣わせてしまっている居た堪れなさと後ろめたさとが混然一体となった感情を持て余しつつ、内心派手に取り乱してしまっていた。
最初は、スザクが慣れているからなのだろうとばかり思っていた。けれど、二度目の行為を終えてから初めて抱かれた時のことを反芻してみると、改めてその異常さに気付く。
何が何だか解らないうちに終わったとはいえ、与えられる快楽がどれ程のものなのか、俺は既に知っている……そんな感じさえあった。
あの行為には、向き不向きでもあるのだろうか。でなければ説明がつかない。
一応、知識として知ってはいた。恋した相手がスザク――つまり、同性だったから。
スザクに抱いているのが恋心だと悟った時に、ネットで少しだけ調べた。というのも、自分が本当に同性愛者なのかどうか知りたくなったからだ。
流し見した情報の中に、確かあの行為のことも書いてあったように思う。色々と耐え切れなくなって途中で投げ出してしまったが、きちんと読んでおけばよかったと今更のように後悔する。
――でも……最初からあんな……。可能なのだろうか……。
あれは……俺のあの反応は、普通のことなのか?
本能に期待がプラスされた時の自然な反応。
今までは、勝手にそう解釈して結論付けていたけれど……。
「ルルーシュ」
「?」
不意に、スザクの声が固くなった。
何事かと思って視線を上げれば、疑惑の針で突き刺すような眼差しに真っ向から射抜かれる。
「俺には言えないことか?」
「! 違います……!」
その言い回しにハッとして、俺は慌ててかぶりを振った。
厳しい表情にもみえるけれど、そうじゃない。――これは、スザクの心に残る生傷が疼いている時の顔だ。
「隠し事ではないんです」
これ以上スザクに変な誤解をさせたくない。そう思いながら落ち着いた声ではっきり告げると、スザクは顔の前で両手を組んだままスッと目を眇めた。
「それは本当?」
「スザク――」
信用されていないのか。
ショックを受けた俺が非難の意を込めて名を呼べば、スザクは痛みを堪えるように顔をしかめた。力無く「ごめん」と呟いてから組んだ両手を解き、儚い笑みを浮かべて俺を見る。
――どうして……。
スザクの表情を台詞に置き換えるなら「またやってしまった」というところだろうか。
厭世的とも受け取れる疲れを滲ませたスザクに、今度こそ隠しようのない悲しみが押し寄せてくる。
そんなにも忘れられないのか。その『大切な友達』のことを。……受けた裏切りを。傷付いた思いを。
またしても、スザクの世界から弾き出されてしまった。そんな感覚に、俺は酷く切なくなるばかりか、今すぐにでも泣き崩れてしまいたいくらいだった。
その笑顔は「気遣い」としての笑みではない。ただの「拒絶」であり「諦め」の笑みだ。
解っているから。申し訳ないと思っているから。
でも、自分でもどうしようもないんだ。だから、何も言わないで。――そういう意味での。
ここに俺がいるのに。こうやって話しているのに……向き合っているように見えて、スザクは俺と向き合ってなどいない。
重ねてなどいないという台詞が嘘ではないかと、俺が疑っていることにも気付いているだろう?
なのに、踏み込んでこないのか。それとも怖いのか?
……やはり、この人は軍人には向いていない。俺は改めてそう思った。
この人はとても強い人だけれど、それ以上に、本当はとても傷付き易くて弱い人なのかもしれない。
脆くて繊細で、怖がりで。すぐに心を閉じて一人きりになろうとする。……本当は、そういう人なのではないか?
スザクはとても臆病だ。多分俺に踏み込まれるのも怖いのだろう。
それに、凄く頑固だ。
自分一人で抱え切れないなら抱え切れないと言えばいい。――それとも、自分など壊れてしまってもいいというのだろうか。
俺は好きだ、愛していると伝えたはずだ。嘘を吐かれても構わないし、俺は貴方にだけは嘘は吐かない。そうも言った。
それなのに、その思いさえ無視して、自分勝手に壊れてしまうことを選ぼうとしているのか?……だとしたら、スザクはあまりにも頑な過ぎる。
自分と似ている部分があると思うからこそ、一瞬、初めてスザクに対して苛立ちを覚えた。
まるで頑是無い子供のようだ。
自分に罰を与えるかのように、スザクはわざわざ自分自身を辛くしていく。
部屋の隅に縮こまって、閉じた扉に向かって背を向けて、誰かに優しく頭を撫でてもらって宥められるまで、いつまでも怒った顔をしながら膝を抱えている子供のように。
常に「俺は一人だ」と、自分に言い聞かせているのだろうか。それとも、「俺は一人きりでいなくてはならない」と決めてしまっているのか?
……いや。でなければ、こういった壁の作り方はしないだろう。
「スザク、」
誤解だ。俺が切り離したんじゃない。だから、どうか心を閉じないでくれ。
しかし、思わずそう言いかけた俺の声は、短く「ルルーシュ」と呼ぶスザクの声によって遮られた。
スザクは皿に盛られたパンを一つ掴み、俺の顔を見つめたままそれを千切っている。
「はい」
「?」
「食べて、ルルーシュ」
「――――」
指先で摘まれ、正面から差し出されたそれを、俺はじっと見つめた。一口大に千切られた意図については――何となく理解出来る。
手で受け取って食べようかとも思ったが、俺は僅かに逡巡してから、そろりとスザクへ視線を向けた。
スザクは身を乗り出した俺の顔を真剣な面持ちで凝視しながら、唇にそっとパンの欠片を押し当ててくる。薄く口を開けて銜えると同時にくいっと中に押し込まれ、内心、親鳥から餌を貰う雛のような食べ方だと無性に気恥ずかしくなった。
「…………」
黙って咀嚼している俺を見て、スザクは愁いを含んだ表情で笑っていた。膨らんだ俺の頬をちょん、とつついてから、優しく触れてきた指先が離れていく。
向けられた真摯な眼差しを、俺は真っ向から受け止めた。
――口に出されずとも解る。これは、暗黙の了解。そのための儀式なのだと。
こうした些細なやりとりで、口には出せない何かについて許し合うための……。
つい今しがた、心の内側でスザクを責め、激しく詰ったことを、俺はスザクに向かって声に出さずに詫びていた。
直したいけれど直せなくて、自分でもどうしようもなくて……それでも、自分以外の誰にも抱えることの出来ない欠点なら俺にもある。
頭に血が上り易い己を、俺は恥じた。
拒絶と牽制を押してでも言った方がよかったのか、それとも、こうして引くことこそ正解だったのか判断はつかない。
でも、今は――。
……ともあれ、俺はスザクを好きになった理由を打ち明けたものの、スザクからはまだ、具体的な理由については何も聞かされていない。
スザクはとてもミステリアスで、よく解らない部分が多すぎる。
こんな風に言葉が無くても通じ合い、解り合うことだって出来るのに、とても近くて遠い存在。
初めてその瞳を見た瞬間、心を撃ち抜かれた。一目見た時からずっと会いたいと願っていた人なのに……やっと会えたのに。
それでも、近付くことは未だに怖くて、心に触れようとすれば酷く痛くて――それなのに近付きたい。
この人は難しい人だ。もしこれがゲームやチェスの一局だったとするならば、俺にとってはその方が余程簡単だったことだろう。
茨に覆われた彼の心に寄り添うには、一体どうすればいいのか。
助けられる。自分なら救うことが出来る。そう驕っていられるほど俺は傲慢じゃない。
それでも本当の彼に、スザクに会いたかった。
誰よりも傍に居たいし、居て欲しい。そんなことを思うのもスザクに対してだけだ。
今、目の前に居るのに会いたい。只そればかりを想う。
離れていることの方が不自然で、離れた次の瞬間には、もう会いたい。
二人一緒でなければ寂しくて、切なくて、心のどこかが欠けてしまう。その隙間を満たせる人が、埋められる人こそがスザクなのだと俺は思った。
たとえスザクにとっての俺が欠落を埋められる存在ではなくとも、俺にとっては他の誰でもない、この人でなければ駄目なのだ。
この人にだけは、愛されたい。……だから俺は、スザクを目の前にする度に、いつも焦ってばかりいるのかもしれない。
そして、俺がこんな不安を抱く理由の内の一つが、自分自身やスザクから感じる一連の――あの、謎めいた「慣れ」でもあるのかもしれなかった。