Lost ParadiseⅡ(スザルル)
1
久しぶりに、あの夢を見た。
緑の生い茂る雑木林。一面に広がる向日葵畑と蝉の声。真っ青な夏空と入道雲。
中天から降り注ぐのは、じりじりと焦げ付くような太陽の光。
『ルルーシュ! 早く上って来いよ』
間延びした声が耳を打つ。上から降ってくる声に向かって、俺は顔を上げた。
長い階段。ぜいぜいと切れる息。敷石に点々と落ちる俺の汗。
――そうだ。あの階段は何度上っても、そのしんどさに慣れることなんか決してなかった。
ふらつく足どりでどうにか上り切り、がくがくと震える膝に力を込めて懸命に地面を踏みしめる。肩で呼吸しながら膝に手を付くと、掌も膝もしっとりと汗に塗れていた。
『なぁんだ、もう息切らしてるのか。だらしないな』
『うるさいな。この体力バカ!』
『なんだと? 口の減らない奴だな、このへなちょこ--』
『へなちょことは何だ! 失礼だぞ、---!』
『ホントのことだろ?……ほら』
差し出される少年の手。
振り払おうとしてから渋々掴まった俺は、くの字に屈めていた上体をようやく起こして……。
『まあ、お前の根性だけは認めてやるよ、ルルーシュ』
親しげに俺を呼ぶ懐かしい声。
素っ気無くて乱暴だけど、俺は、この手にだけは掴まることが出来るんだ。
口うるさくて自分勝手で……だけど、いつだって何だかんだと助けてくれて、俺と違って裏表が無くてまっすぐで。
そして何より、心根が優しい。
だから俺は、こいつのことだけは信用出来る。---のことだけは。
そう思いながら、振り返った遥か後方に見えるものは…………。
Lost ParadiseⅡ
まどろみから目覚めると同時に、ゆっくりと意識が浮上する。
白い天井。いつもと何も変わらない光景。……俺の部屋。
むくりと起き上がってから呟いた。
「赤い……何だっけ?」
あれは、なんだっただろうか。
「確か、トリイ、とかいったな」
初めて出てきた。今まで見た夢には一度も出てこなかったのに。
それに、あの少年。顔の作りこそぼやけていてよく思い出せないものの、全体的な印象が似ている。――彼に。
あのまま成長したら、と考えかけてから、俺は思考を止めた。
その可能性は今までにも幾度か考えた。でも、スザクに話した時にもそれらしいリアクションは特に無かったのだから、やはり違うのだろう。
夢に出てくる少年は、いつも同じ格好だ。属領となる前のここ、エリア11――日本の民族衣装である『キモノ』に若干似ているようにも思える服装だが、詳しくは解らない。
毎度のことながら、おかしな夢だ。そもそも、何故そんな変わった服を着た子供と遊んでいるんだ、俺は?
今度時間がある時にでも調べてみようか、と考えつつ俺は目を擦った。
肌寒さを感じながらベッドサイドを見回すと、ふと自分の上半身が視界に映る。――何も纏っていない。
「あ……」
ドキリと心臓が鳴って、一瞬だけ肩が強張った。
目に入ったのは、情事の名残も色濃い鬱血の跡。
腕の内側や胸元、鎖骨の下。まさかこんなに沢山付けられていたなんて思いもしなかった。
……これではまるで、行為の証を直接体に残されたようなものだ。
『これは自分のものだ』と。さながら所有印を焼き付けるが如く。
唐突に昨夜のことを思い出した俺は、ベッドに付いていた手をおずおずと動かす。
ずず、とシーツの上を滑る掌。布に擦れるその音をどこか遠く感じながら、ようやく呼吸を詰めたままの自分に気付いた。
まだ煩く鳴っている心臓の上に手を当てて、はあっと大きく呼気を吐き出してから、俺は正面の壁に掛けられた時計を見る。
「六時か」
普段より幾分早い起床となったが、今日はそれでいい。
「スザク……」
改めて名を呼ぶだけで、頬にかあっと血が集まっていく。
とうとう呼んでしまった。夢にまで見た彼の名を。出会う前からあれこれ想像していたことまで知られてしまって、本当に恥ずかしいことこの上ない。
途端、じわりと心が沸き立つような高揚を感じ、少しだけ関係が進展したようで居てもたってもいられなくなってしまった。……さっきからずっと、胸の動悸が収まらない。
瞼の裏に浮かぶのは、昨夜見たスザクの引き締まった体躯だ。日頃から続けているらしい鍛錬の賜物なのか、同性であっても見惚れるほど均整の取れた美しい裸体。無駄な部分など一切無くて、どことなく色気があって――。
比べる相手が悪いだろうと思いながら、俺は抱えた膝に顎を乗せて自分の腕を眺めた。
同じように細身でありながら、スザクの腕は全く質が異なっていて、もっと逞しい。決して太くはないけれど、敏捷性に富んだしなやかさを感じる筋肉の付き方。健康的に焼けた小麦色の肌といい、素直にかっこいいな、と憧れてしまう。
脂肪が付きにくい分、筋肉も付きづらいのだ、この体は。
魚の腹のように白い素肌を見下ろしていると、つくづく貧相だな、と情けなくなってくる。どこもかしこも正反対で、お世辞にもつり合いが取れているとは言い難い。
スザクは気持ち悪く無いのだろうか。同性なのにこんな体を抱いて、つまらないと思ったりはしないのか?
『ルルーシュ』
不意に、荒くなった吐息混じりの熱っぽい囁きが蘇った。
脳髄が痺れるほど甘く響く独特のトーンを思い出すだけで、体の深部から震えにも似た灼熱の疼きが沸き上がってくる。
まだ出会って間もないというのに、どうしてあんな声を出せるんだろう。そう思いながら、俺は落ち着かない気持ちを治めるために、寝乱れたシーツの上で自分の両肩を強く抱いて背を丸めていた。
愛おしさを濃縮したような低い声。目を閉じるだけで易々と蘇り、また頬が熱くなってくる。
初めて抱かれた時は、正に夢心地だった。
蕩けそうなほど烈しい情欲を滲ませたあの声に名を呼ばれ、そして抱かれたのだ……ずっと憧れていた彼の人に。
大人びた雰囲気ではあるものの、東洋人ということもあって、スザクはどちらかといえば童顔な方だと思う。けれど、精悍ながらも幼さを残したその顔の作りを裏切っているのは、射抜かれそうなほど鋭い深緑の双眸。
テレビで姿を見かけるたびに、いつも不思議に思っていた。一体どんな出来事を経験したら、あんな深みを帯びた眼差しになるのだろうと。
堪え切れないほどの痛みを抑え付けているような厳しい瞳。
皇帝直属の十二騎士、ナイト・オブ・ラウンズに選ばれるほどの実力の持ち主でありながら、まるで捨てられた子犬のように寂しげで、辛そうで、いつだって苦しそうで……。
ぽっかりと胸に空いた風穴。その隙間を埋めるものを失ってしまったかのような。
俺は思い込みが激しいのだろうかと、一時は疑問に感じたりもした。元々、他人に対する興味や関心、執着の度合いは然程強くはない。
それなのに、俺は一目見ただけで、何故かこう思ったのだ。
――会いたい、と。
どうしようもないほどの懐かしさと切なさ。怒涛のように込み上げてくる激情と焦燥。
テレビに釘付けになったまま動けずにいるうちに、両目から次々と大粒の涙が溢れ出し、俺は霞む視界の中で呆然と画面を見つめたまま酷い混乱に陥った。
誰だ、お前は? ナイトオブセブン、枢木スザク? 知らないぞ、そんな奴は。
それなのに、なんで――?
そう思う間にも、訳の分からない言葉の羅列が頭の中を駆け巡っていく。
会いたい。会えない。本当は言いたい。全て打ち明けてしまいたい。
でも言えないんだ、何も。仕方が無いんだ、言っても。
おまえにとって、俺はもう、不要な存在でしかないのだから。
俺の敵。最悪の。憎い。――違う! 信じていたのに! 全ては過去。――解っているさ!
お前が俺を……本当に? これが現実だなんて……嫌だ。認めたくない。離れていってしまうのか?
――違う! 切り捨てたのは俺の方だ!
受け入れろ。――もう受け入れている! 覚悟ならとっくに……!
――嘘吐き。
もう戻れないんだ、俺達は。離れなければならない。背負わなければ。
引き返すことなど出来ない。あいつを殺すまでは。
だから、誰の施しも受けない! 俺は一人でも立ってみせる!
……いいんだ、それでいい。
俺には----だけが居ればいい!
一体、誰のせいだ、これは? 教えてくれ。
何故。どうしてこうなった。嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
――理解されたかった。俺は。
他の誰に拒絶されてもいい。世界中の人々に憎まれたって構わない。
ただ、受け入れて欲しかった。否定しないで欲しかった。
この世でたった一人きり。
俺が唯一の友と信じた、お前にだけは…………。
憤怒と憎悪。底無しの絶望と孤独。胸を刺す強烈な悲しみ。――そして、途方も無いほどの切なさ。
まるで意味が解らなかった。
なんだ、これは? 不要? 敵? 殺す……? 何のことだ。誰の話だ?
それに、その名前は?
俺は、頭がおかしくなったのか……?
落涙しながら自問してみても、説明のつかない壮絶な感情の奔流に巻き込まれて声さえ出なかった。
ただ、一度だけでも構わない。彼に会いたい。近付きたい。何か一言だけでもいいから言葉を交わしたい……そう思った。
性格は? 話し方は? 一体どんな声で話すんだ? 知っているような気がするのに、何も解らない。
触れたい。傍に居たい。とにかく俺を見て欲しい。
もしこの人に見つめられたら、どんな感じがするんだろう?
その辛そうな瞳には、何か理由でもあるのか? だったら教えて欲しい。知りたいんだ。
何より、常に心を押し殺すことに耐えているようなその表情が、笑顔に変わるところを見てみたい。
――欲しい。どうしても欲しい。
何を押しても、この人が欲しい……!
恋だと気付いた時には、とっくに後戻りできないほどの深みに嵌まっていた。
こんな激しい感情は知らない。今まで体験したことなど一度も無い。でも、自分でもどうにもならないほど彼のことを欲している。愛してしまっている。
そう自覚した時、接点など何一つ無いことに深く傷付き、絶望し、心底口惜しく思った。
一目惚れなんて有り得ないと馬鹿にしていたのに。けれど、そんな安っぽい言葉で片付けられたくもない。
だから、何度も何度も夢想した。実際会えたら。名前を呼び合えるような関係になれたらと。
その彼が――スザクが。今、同じ屋根の下に住んでいるのだ。手を伸ばせばいつでも届く距離に。触れ合える場所に。
……俺の傍に。
「信じられない……」
目を閉じて思わず呟いた俺は、組んだ腕の下へとたくし上げたシーツに顔を埋めていた。
あろうことか、抱き合える関係。それも、もう二度も……。
出会った初日に言われた言葉。
『お前は、俺にどうされたいんだ?』
正直に本音を言えたら、お前の望み通りにしてやる、と。
本音を言うのは、とても怖い。だから、もっと上手く嘘が吐けたらいいのにと、俺は常々そう願っていた。
それなのに、俺が心から会いたいと望んでいたスザクは。
『俺に命令しろって言ってるんだ。俺が必ずお前の望みを叶えてやる』
柔らかかった物腰が百八十度豹変し、粗野とも粗暴とも言える態度で迫ってくるさまは、それは恐ろしかったし怖かった。
優しげな笑顔も、人当たりのいい態度でさえも全てが作り物で、もしかすると、この顔こそが彼の本性なのだろうかと疑いもした。
――だけど。
『俺はお前を裏切らない。信じろ。ルルーシュ』
駄目押しのような、この台詞。
力強い言葉に押されて、抗うという選択肢などある筈が無い。
別に構わない。この獰猛な部分が彼の一部だったのだとしても。それでも彼を好きな俺の気持ちに変わりは無い。
求められている。欲されている。そう察することが出来たのは本能だったのだろうか。
一瞬で全てを解り合えたような気がして、気付けばこの身ごと委ねる覚悟が決まっていた。
そして、反射的に叫んでいた。『俺を愛せ』と。
何もかもが、不自然なほどに自然。
まるで血の契約に沿うように。これはきっと、魂に刻み込まれた覚書のようなものなのだと。あの時の俺は、そういった自身の感覚を信じて従っただけだ。
……確かに、疑問はある。
俺とスザクは初対面だ。全くそんな気はしないものの、それはあくまでもこちらが一方的に思慕を寄せていたからこその話であって、スザクにとっては何の思い入れも無いただの一生徒だったに過ぎない。
それなのに、言うだろうか。『俺に命令しろ』などと……。
スザクのことを知ってから、俺はネットで彼のことを調べた。可能な限り詳しく。
軍の方で規制されているのか大した情報は拾えなかったが、出身地やプロフィール、過去の経歴などは、ニュース記事等を遡ればある程度知ることが出来た。
エリア11出身の名誉ブリタニア人。日本最後の首相、故・枢木ゲンブの一人息子。
加えて、故・クロヴィス殿下殺害事件の容疑者として検挙された過去まで持ちながらも、突出した戦闘能力を買われて一等兵から准尉へと格上げされ、人型自在戦闘兵器・ランスロットのデヴァイサーに選ばれている。
のち、名誉ブリタニア人でありながら、故・ユーフェミア副総督の騎士に異例の大抜擢。前代未聞ながら名誉騎士侯となり、更に少佐へと特進。
が、特区日本記念式典中にユーフェミア皇女殿下が乱心したことにより、イレブン虐殺騒動が発生。当時このエリア内で起こった『オレンジ事件』――もとい『枢木スザク強奪事件』を皮切りに、全世界を席巻していたテロリスト組織・黒の騎士団は、暴徒と化した民衆ゲリラを巻き込み政庁へと進軍。
ブラックリベリオン勃発。
警護任務中で式典会場内にいたスザクは単機にて専行、黒の騎士団リーダー・指導者ゼロを捕獲。騎士団を壊滅させ、これを鎮圧。
反逆者ゼロの逮捕、及びクーデター阻止の功績により、帝国最強の十二騎士、ナイトオブセブンの称号を得る。
その後も全国各地の反ブリタニア勢力をたった一機のナイトメアで制圧し、数々の武勲を立て続けていることから、帝国本土での地位はおろか、評価でさえも磐石なものとなり。
圧倒的戦力を誇る純白の機体に擬えてもいるのだろうが、彼に纏わったとされる人物全てが死亡している事実に基づき、いつしか反抗勢力の間では、彼自身に対する畏怖をも込めてこう字されるようになったという。
通称――『ブリタニアの白き死神』
生い立ちだけ見ても、相当複雑な立場であったことは想像に難くない。だというのに、ほぼ出世など見込めない不利な立場からスタートしたとは到底思えないほど華々しい経歴だ。
そもそも、実力主義を謳うこの国において、これだけ認められる実力の持ち主という時点で尋常ではない。知れば知るほど凄まじい人生を歩んできたと言わざるを得ないだろう。――はっきり言って、雲の上にいるような相手だ。
組んだ腕とシーツの狭間に顔を埋めたまま、俺は、心のどこかが欠けたようなスザクの瞳を思い浮かべる。
忘れてはいない。彼は軍人。
そう。――スザクは、人を殺しているのだ。
久しぶりに、あの夢を見た。
緑の生い茂る雑木林。一面に広がる向日葵畑と蝉の声。真っ青な夏空と入道雲。
中天から降り注ぐのは、じりじりと焦げ付くような太陽の光。
『ルルーシュ! 早く上って来いよ』
間延びした声が耳を打つ。上から降ってくる声に向かって、俺は顔を上げた。
長い階段。ぜいぜいと切れる息。敷石に点々と落ちる俺の汗。
――そうだ。あの階段は何度上っても、そのしんどさに慣れることなんか決してなかった。
ふらつく足どりでどうにか上り切り、がくがくと震える膝に力を込めて懸命に地面を踏みしめる。肩で呼吸しながら膝に手を付くと、掌も膝もしっとりと汗に塗れていた。
『なぁんだ、もう息切らしてるのか。だらしないな』
『うるさいな。この体力バカ!』
『なんだと? 口の減らない奴だな、このへなちょこ--』
『へなちょことは何だ! 失礼だぞ、---!』
『ホントのことだろ?……ほら』
差し出される少年の手。
振り払おうとしてから渋々掴まった俺は、くの字に屈めていた上体をようやく起こして……。
『まあ、お前の根性だけは認めてやるよ、ルルーシュ』
親しげに俺を呼ぶ懐かしい声。
素っ気無くて乱暴だけど、俺は、この手にだけは掴まることが出来るんだ。
口うるさくて自分勝手で……だけど、いつだって何だかんだと助けてくれて、俺と違って裏表が無くてまっすぐで。
そして何より、心根が優しい。
だから俺は、こいつのことだけは信用出来る。---のことだけは。
そう思いながら、振り返った遥か後方に見えるものは…………。
Lost ParadiseⅡ
まどろみから目覚めると同時に、ゆっくりと意識が浮上する。
白い天井。いつもと何も変わらない光景。……俺の部屋。
むくりと起き上がってから呟いた。
「赤い……何だっけ?」
あれは、なんだっただろうか。
「確か、トリイ、とかいったな」
初めて出てきた。今まで見た夢には一度も出てこなかったのに。
それに、あの少年。顔の作りこそぼやけていてよく思い出せないものの、全体的な印象が似ている。――彼に。
あのまま成長したら、と考えかけてから、俺は思考を止めた。
その可能性は今までにも幾度か考えた。でも、スザクに話した時にもそれらしいリアクションは特に無かったのだから、やはり違うのだろう。
夢に出てくる少年は、いつも同じ格好だ。属領となる前のここ、エリア11――日本の民族衣装である『キモノ』に若干似ているようにも思える服装だが、詳しくは解らない。
毎度のことながら、おかしな夢だ。そもそも、何故そんな変わった服を着た子供と遊んでいるんだ、俺は?
今度時間がある時にでも調べてみようか、と考えつつ俺は目を擦った。
肌寒さを感じながらベッドサイドを見回すと、ふと自分の上半身が視界に映る。――何も纏っていない。
「あ……」
ドキリと心臓が鳴って、一瞬だけ肩が強張った。
目に入ったのは、情事の名残も色濃い鬱血の跡。
腕の内側や胸元、鎖骨の下。まさかこんなに沢山付けられていたなんて思いもしなかった。
……これではまるで、行為の証を直接体に残されたようなものだ。
『これは自分のものだ』と。さながら所有印を焼き付けるが如く。
唐突に昨夜のことを思い出した俺は、ベッドに付いていた手をおずおずと動かす。
ずず、とシーツの上を滑る掌。布に擦れるその音をどこか遠く感じながら、ようやく呼吸を詰めたままの自分に気付いた。
まだ煩く鳴っている心臓の上に手を当てて、はあっと大きく呼気を吐き出してから、俺は正面の壁に掛けられた時計を見る。
「六時か」
普段より幾分早い起床となったが、今日はそれでいい。
「スザク……」
改めて名を呼ぶだけで、頬にかあっと血が集まっていく。
とうとう呼んでしまった。夢にまで見た彼の名を。出会う前からあれこれ想像していたことまで知られてしまって、本当に恥ずかしいことこの上ない。
途端、じわりと心が沸き立つような高揚を感じ、少しだけ関係が進展したようで居てもたってもいられなくなってしまった。……さっきからずっと、胸の動悸が収まらない。
瞼の裏に浮かぶのは、昨夜見たスザクの引き締まった体躯だ。日頃から続けているらしい鍛錬の賜物なのか、同性であっても見惚れるほど均整の取れた美しい裸体。無駄な部分など一切無くて、どことなく色気があって――。
比べる相手が悪いだろうと思いながら、俺は抱えた膝に顎を乗せて自分の腕を眺めた。
同じように細身でありながら、スザクの腕は全く質が異なっていて、もっと逞しい。決して太くはないけれど、敏捷性に富んだしなやかさを感じる筋肉の付き方。健康的に焼けた小麦色の肌といい、素直にかっこいいな、と憧れてしまう。
脂肪が付きにくい分、筋肉も付きづらいのだ、この体は。
魚の腹のように白い素肌を見下ろしていると、つくづく貧相だな、と情けなくなってくる。どこもかしこも正反対で、お世辞にもつり合いが取れているとは言い難い。
スザクは気持ち悪く無いのだろうか。同性なのにこんな体を抱いて、つまらないと思ったりはしないのか?
『ルルーシュ』
不意に、荒くなった吐息混じりの熱っぽい囁きが蘇った。
脳髄が痺れるほど甘く響く独特のトーンを思い出すだけで、体の深部から震えにも似た灼熱の疼きが沸き上がってくる。
まだ出会って間もないというのに、どうしてあんな声を出せるんだろう。そう思いながら、俺は落ち着かない気持ちを治めるために、寝乱れたシーツの上で自分の両肩を強く抱いて背を丸めていた。
愛おしさを濃縮したような低い声。目を閉じるだけで易々と蘇り、また頬が熱くなってくる。
初めて抱かれた時は、正に夢心地だった。
蕩けそうなほど烈しい情欲を滲ませたあの声に名を呼ばれ、そして抱かれたのだ……ずっと憧れていた彼の人に。
大人びた雰囲気ではあるものの、東洋人ということもあって、スザクはどちらかといえば童顔な方だと思う。けれど、精悍ながらも幼さを残したその顔の作りを裏切っているのは、射抜かれそうなほど鋭い深緑の双眸。
テレビで姿を見かけるたびに、いつも不思議に思っていた。一体どんな出来事を経験したら、あんな深みを帯びた眼差しになるのだろうと。
堪え切れないほどの痛みを抑え付けているような厳しい瞳。
皇帝直属の十二騎士、ナイト・オブ・ラウンズに選ばれるほどの実力の持ち主でありながら、まるで捨てられた子犬のように寂しげで、辛そうで、いつだって苦しそうで……。
ぽっかりと胸に空いた風穴。その隙間を埋めるものを失ってしまったかのような。
俺は思い込みが激しいのだろうかと、一時は疑問に感じたりもした。元々、他人に対する興味や関心、執着の度合いは然程強くはない。
それなのに、俺は一目見ただけで、何故かこう思ったのだ。
――会いたい、と。
どうしようもないほどの懐かしさと切なさ。怒涛のように込み上げてくる激情と焦燥。
テレビに釘付けになったまま動けずにいるうちに、両目から次々と大粒の涙が溢れ出し、俺は霞む視界の中で呆然と画面を見つめたまま酷い混乱に陥った。
誰だ、お前は? ナイトオブセブン、枢木スザク? 知らないぞ、そんな奴は。
それなのに、なんで――?
そう思う間にも、訳の分からない言葉の羅列が頭の中を駆け巡っていく。
会いたい。会えない。本当は言いたい。全て打ち明けてしまいたい。
でも言えないんだ、何も。仕方が無いんだ、言っても。
おまえにとって、俺はもう、不要な存在でしかないのだから。
俺の敵。最悪の。憎い。――違う! 信じていたのに! 全ては過去。――解っているさ!
お前が俺を……本当に? これが現実だなんて……嫌だ。認めたくない。離れていってしまうのか?
――違う! 切り捨てたのは俺の方だ!
受け入れろ。――もう受け入れている! 覚悟ならとっくに……!
――嘘吐き。
もう戻れないんだ、俺達は。離れなければならない。背負わなければ。
引き返すことなど出来ない。あいつを殺すまでは。
だから、誰の施しも受けない! 俺は一人でも立ってみせる!
……いいんだ、それでいい。
俺には----だけが居ればいい!
一体、誰のせいだ、これは? 教えてくれ。
何故。どうしてこうなった。嫌だ、嫌だ、嫌だ……。
――理解されたかった。俺は。
他の誰に拒絶されてもいい。世界中の人々に憎まれたって構わない。
ただ、受け入れて欲しかった。否定しないで欲しかった。
この世でたった一人きり。
俺が唯一の友と信じた、お前にだけは…………。
憤怒と憎悪。底無しの絶望と孤独。胸を刺す強烈な悲しみ。――そして、途方も無いほどの切なさ。
まるで意味が解らなかった。
なんだ、これは? 不要? 敵? 殺す……? 何のことだ。誰の話だ?
それに、その名前は?
俺は、頭がおかしくなったのか……?
落涙しながら自問してみても、説明のつかない壮絶な感情の奔流に巻き込まれて声さえ出なかった。
ただ、一度だけでも構わない。彼に会いたい。近付きたい。何か一言だけでもいいから言葉を交わしたい……そう思った。
性格は? 話し方は? 一体どんな声で話すんだ? 知っているような気がするのに、何も解らない。
触れたい。傍に居たい。とにかく俺を見て欲しい。
もしこの人に見つめられたら、どんな感じがするんだろう?
その辛そうな瞳には、何か理由でもあるのか? だったら教えて欲しい。知りたいんだ。
何より、常に心を押し殺すことに耐えているようなその表情が、笑顔に変わるところを見てみたい。
――欲しい。どうしても欲しい。
何を押しても、この人が欲しい……!
恋だと気付いた時には、とっくに後戻りできないほどの深みに嵌まっていた。
こんな激しい感情は知らない。今まで体験したことなど一度も無い。でも、自分でもどうにもならないほど彼のことを欲している。愛してしまっている。
そう自覚した時、接点など何一つ無いことに深く傷付き、絶望し、心底口惜しく思った。
一目惚れなんて有り得ないと馬鹿にしていたのに。けれど、そんな安っぽい言葉で片付けられたくもない。
だから、何度も何度も夢想した。実際会えたら。名前を呼び合えるような関係になれたらと。
その彼が――スザクが。今、同じ屋根の下に住んでいるのだ。手を伸ばせばいつでも届く距離に。触れ合える場所に。
……俺の傍に。
「信じられない……」
目を閉じて思わず呟いた俺は、組んだ腕の下へとたくし上げたシーツに顔を埋めていた。
あろうことか、抱き合える関係。それも、もう二度も……。
出会った初日に言われた言葉。
『お前は、俺にどうされたいんだ?』
正直に本音を言えたら、お前の望み通りにしてやる、と。
本音を言うのは、とても怖い。だから、もっと上手く嘘が吐けたらいいのにと、俺は常々そう願っていた。
それなのに、俺が心から会いたいと望んでいたスザクは。
『俺に命令しろって言ってるんだ。俺が必ずお前の望みを叶えてやる』
柔らかかった物腰が百八十度豹変し、粗野とも粗暴とも言える態度で迫ってくるさまは、それは恐ろしかったし怖かった。
優しげな笑顔も、人当たりのいい態度でさえも全てが作り物で、もしかすると、この顔こそが彼の本性なのだろうかと疑いもした。
――だけど。
『俺はお前を裏切らない。信じろ。ルルーシュ』
駄目押しのような、この台詞。
力強い言葉に押されて、抗うという選択肢などある筈が無い。
別に構わない。この獰猛な部分が彼の一部だったのだとしても。それでも彼を好きな俺の気持ちに変わりは無い。
求められている。欲されている。そう察することが出来たのは本能だったのだろうか。
一瞬で全てを解り合えたような気がして、気付けばこの身ごと委ねる覚悟が決まっていた。
そして、反射的に叫んでいた。『俺を愛せ』と。
何もかもが、不自然なほどに自然。
まるで血の契約に沿うように。これはきっと、魂に刻み込まれた覚書のようなものなのだと。あの時の俺は、そういった自身の感覚を信じて従っただけだ。
……確かに、疑問はある。
俺とスザクは初対面だ。全くそんな気はしないものの、それはあくまでもこちらが一方的に思慕を寄せていたからこその話であって、スザクにとっては何の思い入れも無いただの一生徒だったに過ぎない。
それなのに、言うだろうか。『俺に命令しろ』などと……。
スザクのことを知ってから、俺はネットで彼のことを調べた。可能な限り詳しく。
軍の方で規制されているのか大した情報は拾えなかったが、出身地やプロフィール、過去の経歴などは、ニュース記事等を遡ればある程度知ることが出来た。
エリア11出身の名誉ブリタニア人。日本最後の首相、故・枢木ゲンブの一人息子。
加えて、故・クロヴィス殿下殺害事件の容疑者として検挙された過去まで持ちながらも、突出した戦闘能力を買われて一等兵から准尉へと格上げされ、人型自在戦闘兵器・ランスロットのデヴァイサーに選ばれている。
のち、名誉ブリタニア人でありながら、故・ユーフェミア副総督の騎士に異例の大抜擢。前代未聞ながら名誉騎士侯となり、更に少佐へと特進。
が、特区日本記念式典中にユーフェミア皇女殿下が乱心したことにより、イレブン虐殺騒動が発生。当時このエリア内で起こった『オレンジ事件』――もとい『枢木スザク強奪事件』を皮切りに、全世界を席巻していたテロリスト組織・黒の騎士団は、暴徒と化した民衆ゲリラを巻き込み政庁へと進軍。
ブラックリベリオン勃発。
警護任務中で式典会場内にいたスザクは単機にて専行、黒の騎士団リーダー・指導者ゼロを捕獲。騎士団を壊滅させ、これを鎮圧。
反逆者ゼロの逮捕、及びクーデター阻止の功績により、帝国最強の十二騎士、ナイトオブセブンの称号を得る。
その後も全国各地の反ブリタニア勢力をたった一機のナイトメアで制圧し、数々の武勲を立て続けていることから、帝国本土での地位はおろか、評価でさえも磐石なものとなり。
圧倒的戦力を誇る純白の機体に擬えてもいるのだろうが、彼に纏わったとされる人物全てが死亡している事実に基づき、いつしか反抗勢力の間では、彼自身に対する畏怖をも込めてこう字されるようになったという。
通称――『ブリタニアの白き死神』
生い立ちだけ見ても、相当複雑な立場であったことは想像に難くない。だというのに、ほぼ出世など見込めない不利な立場からスタートしたとは到底思えないほど華々しい経歴だ。
そもそも、実力主義を謳うこの国において、これだけ認められる実力の持ち主という時点で尋常ではない。知れば知るほど凄まじい人生を歩んできたと言わざるを得ないだろう。――はっきり言って、雲の上にいるような相手だ。
組んだ腕とシーツの狭間に顔を埋めたまま、俺は、心のどこかが欠けたようなスザクの瞳を思い浮かべる。
忘れてはいない。彼は軍人。
そう。――スザクは、人を殺しているのだ。