君の囁き、僕のうた。(2012年スザクBD)
草いきれをかき分けて僕は一心に歩いていた。背丈より高い草などそうそう生えているわけもないのに、藪の中にいるかの如く鬱蒼と生い茂っている。
重なり合っては行く手を遮り、視界に割り込む一面の草葉。合間を縫って降り注ぐ光は柔らかく、進んでも進んでも光源に辿り着くことは出来ないように感じられた。
――日光のようにも思えるけれど、これは蛍光灯だ。
むっとする緑の匂いと土の匂い。荒い息遣いが耳の奥にこだまする。
進む先に、こぢんまりとした建物が見えた。
ひと目見た瞬間「僕の家だ」と思った。……でもよく見てみると、段々見覚えのある建物に思えてきて、僕は目を凝らす。
よぎる既視感、郷愁。
ああ違う、あれは家じゃない。
目を眇めて確かめた其処は古びた土倉だった。さあっと一陣の風が吹き抜けて、遠くで鳥が囀っている。
真昼の青空、ゆったりと流れる雲。時折靡く木々のざわめき。
辺りはしんとしていて、ひとけは無い。
懐かしい。帰りたい。……ただそう思った。
春の風。いや、夏だろうか。でも暑さも寒さも感じない。
着ている自分の服には覚えがあるのに知らない服に思える。
妙に現実感が無い中で姿を気にしながら、これは夢だとどこかで悟っていた。
さっきまで草をかき分けながら進んでいたのに、立ち尽くして土倉を見ている僕は、膝丈までの草しか生えていないことに気付いた。
土倉の正面を見据える間、足元を這う蟻の行列を意識する。
耳を澄ましても何も聞こえない。つい先程までは、あんなにもリアルに自然の音が聞こえていたのに。
同時に「当たり前だ」とも思った。
これは昔の光景。それを今見ているのだから……。
あそこには――あの中には十歳の僕らとナナリーがいて、ちょうどルルーシュが洗濯をしていて。もうじき外に遊びに行こうと僕が誘い出すんだ。
もし出てきたら僕はどんな顔で彼らを――昔の自分達を見ればいいのかと考えていたけれど、あの中にはもう誰もいないのだと僕は何故か知っていた。
うららかな日差しを照り返す白い外壁。この蔵はこんなにも小さかっただろうか。
時の流れに忘れ去られたかのように、ひっそりと佇む土倉。懐旧の情や追慕の念をも呼び起こすこの光景は、思い出という名の輝きに包まれた永遠のようにさえ感じられた。
寂しい。帰れない。もう二度と。
……頬に優しい風がそよいだ。
歩を進めたのかそうでないのか、いつの間にか僕は土倉の入り口に突っ立っていた。
外にいるのに、戸口に立つ自分を見る視点は内側からのものだ。
この土倉の中がどうなっているのか、よく覚えている。
年中薄暗くて、掃除をしても埃っぽくて、湿っぽい。
古い木や積み上げられたガラクタの匂い。壁側に寄せられた不用品の山は天井近くまで届いている。
中央に立つ柱の毛羽立った感触。表面に残るのは、身長を競い合って色違いの鉛筆で引かれた何本もの線。
隣に掛けられた不恰好な梯子は梁まで伸びていて、少し頭を低くしなければ動けないほど窮屈な屋根裏へと続いている。
内緒話をする時も、大事な相談を交わす時も、いつもそこだった。
寝台ともいえないような、ただ木箱を三つ並べた上に綿入りの布が数枚重ねられただけの粗末なベッド。……ルルーシュの。
その上に二人で座って、夜通し色んなことを語らった。
どこをどう通ってきたのか、僕は階段を下っていた。
地下へと続く長い階段。明かりはなく、木製だからか一歩下りる度にギシギシと軋んだ音がする。
こんなものがあったか? と伝ってきた手元を見れば、壁一面だけが金属で造られていた。
戦艦・アヴァロンの通路。
浮かんだとおりに反復しただけなのに、悲哀を帯びた空虚が僕を襲った。
瞬時に「違う」と過ぎり、ではどこだ? と自問するも答えは出てこない。
眼下に四角く拓けた場所が覗く。ぼんやりとオレンジ色に光るそこは、どうやら廊下のようだった。
夕方でもないのに、と思いながら、放課後の教室に続いているような錯覚を抱く。
階段の終わりが見えてきた。一番下まで下りきった右手の壁にはスライド式の大きなドアがあり、そこだけがやけに近代的だ。
教室じゃない。それだけは解った。
カードキーを通して暗証番号を打ち込みながら、訳の解らない番号だと思う。……こんな番号じゃなかったような。
だいたい僕は今何桁入力したんだ? 間違えると入れない。
それに、何となくこの奥に入りたくないのは何故なんだ?
タッチパネルを見てぎょっとした。明らかにおかしい。並んでいるのは数字だと解るのに、意味不明な文字が不規則に羅列しているように見える。
一応扉は開くだろう。根拠の無いその確信にも違和感を覚えながら、図書室と土倉の薄暗さは似ていると前にも思ったような気がした。
けれど、それがいつの記憶だったのか定かではない。
それよりここが図書室なのか、全く違うどこかなのか。
知らない場所だと解っているし、振り返ったところで本棚なんてひとつも無いのに、僕は無意識に7と書かれた札の付いた棚を探している。
ある訳が無い。
しかし僕は、ここは学園の図書室だと思っている。
……あいつに知られてはいけないんだ。あと、確かめないと。
いや、それはもう終わったことだろう……?
自分に言い聞かせると、全身から力が抜けるくらいほっとした。
背中にかいた冷や汗が徐々に引いていく。――大丈夫だ。
開いた扉の向こうはリビングに続いていた。
どこだっけ?
一瞬呆けた後、「なんだ、ルルーシュの家じゃないか」と独り言つ。
本当は呟いたつもりになっただけかもしれない。だって声は聞こえなかったから。
窓辺から差し込む光。グリーンのカーテン。隅に置かれた観葉植物。テーブルの上には花瓶があって、いつも通り綺麗な花が活けられている。
……でもそれも昔の花で、今咲いている花じゃない。
もしこれが悪夢なら、花は見る間に枯れ落ちるだろう。早送りのように茶色く萎れていくビジョンを思い描いたものの、特に何も起こらなかった。
ふと辺りを見渡して、こんな部屋だったかな、と思う。壁に飾られた額入りの絵に目をとめたところで、やっと「ここはルルーシュの家でいいんだ」と納得した。
ここにもやっぱり、誰もいない。
今は昼間だから、ルルーシュもナナリーも学校にいるんだろう。まあサボり癖のあるルルーシュはどうか解らないけれど。
何の疑問もなくそう思った僕は室内をうろついていた。
そういえば、リビングからはどこに繋がっているんだっけ。どこからどう出ればいいんだ?
僕が知るリビングとここは、微妙に造りが違う。
……そこで突然、どうやってここまで来たのか解らなくなってしまった。
確か階段を下りてきたんだよな。じゃなくて、その前。
ああそうだ、土倉にいたんだ。
思い出せたことにほっとして、今度は中を思い浮かべる。
覚えている。覚えている―――覚えて、おかないと。
けれど蘇ったのは、ランタンの光。
違う。僕は土倉の中を通ってきた筈だ。
あれっ? 入っていない?
だって……じゃあ、あの階段は?
記憶がふっつりと途切れている。というより、抜け落ちているらしくて僕は軽く混乱した。
土倉の入り口から階段に至るまで、どこを辿って来たのだろう。
頭の中に浮かんでいるのは洞穴にも似た秘密基地だった。
僕が地面に掘った穴。土くれの壁に布を張って、上からランタンを吊るして……。
初めて三人で入ったのは雨の日だ。全身ずぶ濡れで泥んこだらけになった僕とルルーシュ。間に座ったナナリーの服も汚れていて、車椅子が無い。
目の前に置かれた箱にはキャッチボール用のミットや、色が綺麗だからとっておいたガラス瓶などが乱雑に詰められている。
歌うナナリー。僕が教えた日本の童謡。
彼女を挟んで打楽器代わりに空き缶の底を打ち鳴らす僕と、玩具のラッパを抱えているルルーシュ。
もっぱら合いの手を入れるのは僕ばかりで、せっかく使える楽器を貸したのに、ルルーシュはほとんど鳴らそうとしなかった。
僕はあそこを通ってきたんだろうか?
そうかもしれない。
……いや、やっぱり違う。
唐突に気付いた。
土倉と秘密基地の共通点なんて、薄暗いところだけじゃないか。
真っ暗で窓一つ無い部屋。僕はそこにいた。
いつもそこに帰るんだ。本当に帰りたい場所は、もうどこにも無いから。
頭の横にところどころ尖った黒くて丸い物が置かれていて、僕はそれを薄目で見ていた。
ふいに聞き覚えのある声と沢山の足音がして、誰かが僕に触れてくるのが解る。
その人達は僕の顔を覗き込みながら何か叫んでいた。動く口元だけがスローモーション映像のように見える。
悲鳴だろうか。それとも怒号か。僕はまた責められているのか?
……構わない。とっくの昔に慣れた筈だ。憎まれることになら。
それに僕だって、人を憎んだことがある。
大切な人を。世界を。
運命や宿命。何より自分自身を――。
そして僕は、気付くとあの階段を下っていたんだ。
………ところで、僕の名前って、何だっけ?
思い出したように僕はドアを目指した。リビングから抜けるための出口。
不思議と足取りに迷いは無いものの、そこがいつの間に造られたのか、それとも『ここにだけは』最初からあったのか、僕は知らない。
細く奥まった其処は勿論見たことの無い場所で、白い壁と壁の間が異様に狭くて、まるで寝かせた煙突のような不可思議な造りをしていた。
長い長い通路。突き当たりの壁がドアになっている。――袋小路みたいに、そこにしかない。
このドアを開くとルルーシュの部屋だ。来たこともないのに知っている。そんな気がした。
おかしいな。ルルーシュの部屋の入り口はこんな形じゃないのに、どうして僕はそう思うんだろう?
でもここはルルーシュの家なんだから、多分ルルーシュの部屋なんだ。
ドアは自動ではなく、手でノブを捻るようになっていた。
こんなドアじゃなかった筈。
変だな、と首を傾げる傍ら、ノブの中央に鍵穴があることに気付く。
この鍵が閉まっていたらどうしよう。もし開かなかったら――。
そっとノブを捻り、おそるおそる手前に引くと、果たしてドアは開いた。
ああ良かった。開いた。
でも閉じているわけが無いんだ、ここが。
ところが一歩踏み入れると、そこは僕が思い描いていたルルーシュの部屋じゃなかった。
全く知らない部屋。それなのに見たことがあるような気もするし、ルルーシュの部屋がここだったのを僕は覚えている――ような気もする。
ベッドが一台。ダブルかもしれない。その横には本棚があって、分厚くて難しそうな本が何冊も並んでいた。
背表紙に書かれた文字がまた読めない。これが文字とは認識出来るし、僕はこの言葉が読める筈なのに。
テーブルの上にはチェス盤が置かれていて、それだけが唯一見知った物だった。
でも、盤上に並べられていたのは、黒のキングだけだ。
他の駒はどうしたんだろう?――と。
そこで僕はようやく、「クラブハウスは無くなったんだ」と思い出した。
いつ、どうしてそうなったのかは、解らない。
暗いような、それでいて明るいような、何も無い空間。
別のどこかへと続く道を一人歩みながら、水底から沸きあがるように『ほんとうの造り』を思い出す。
たった今通り過ぎてきたあの部屋は、確か手前にもう一部屋あって。そこにはソファとテーブルが置かれていて、さっき見た迷路の行き止まりにも似た通路など実は無かった。
あれは寝室だ。ルルーシュと、もう一人の。
窓の無い僕の部屋に、そっくりな――。
頭上で誰かが会話している。
頷き合い、ぼそぼそと喋る人の声。カチャカチャと鳴り響く金属音。
聞き慣れない電子音と引き摺るような足音。
瞼越しに感じる赤い光。……時々暗くなる。
そうだ。あれをどこにやったんだ? あれを僕から引き離さないでくれ。
約束したんだ。――これは僕にとっても罰だと。
けれど、手を伸ばそうとしたのに指一本動かせなかった。
僕は今、どこにいるんだ……?
目覚めると真横からすすり泣きが聞こえた。ゆっくり視線を巡らせた其処には、椅子に座ったままベッドに突っ伏すナナリーの姿。
呼びかけようとしても声が出ない。
「泣かないで」――そう言いたいのに。
彼女が何故泣いているのか。そしてここはどこなのか。
嘗て見上げた天井。包帯だらけの僕。
次第に意識がはっきりしてきて、今自分の居る場所はシンジュクだと何となく思った。
特派ヘッドトレーラー内の、医務室。
そういえば、あの頃からもうとっくに、目覚めたくなんかなかったな。
普段疲れているなんて思ったことは一度も無かったけれど、僕は酷く疲れていて。撃たれた瞬間も『熱い?』としか思わなかった。
七年もの歳月を経て、どうしようもなく壊れかけていることなら知っていた。
でもあの時、さながら他人事のように――「ああ、僕はここまで壊れていたのか」と。
死は予告なく訪れる。こんなにも呆気なく。
撃たれたと理解したのは熱さが激痛に変わってからだ。銃口を押し当てられた時でさえ現実感は無く、反射的に『まさか』と思っただけだった。
倒れゆく中で、ただ『逃げろ』と。
……そして本当は、もっと薄情なことも考えた。
終息への安堵。解放への陶酔。
恐怖は無く、訪れる最期の時を待ち詫びてさえいた。
どうか無事で。そう言い残して去ることが、限りなく放棄に似ていると知っていて。
死に際に覚えたかすかな満足。甘美な達成感。
命令に逆らったとしても、ルールは守った。再会出来た彼のことも。
僕に出来るのはここまでだ。
あとは何とか、自力で逃げ延びてくれれば……。
責任が無いから悔いも無いのか?
――そんな筈は無い。
後のことがどうなろうと、僕の咎じゃない?
――そんなの間違ってる。
最後まであがくべきだ。生きるとはそういうことだから。
でも僕は。
俺は………。
ならどうすればいいんだ。
矛盾だけが際限なく膨らみ、内側から僕を蝕んでいく。
僕は気付きたくなかったのかもしれない。
それは生きるために生きるのではなく、償いのための死を受け入れる生き方しか出来なくなった者のエゴなのだと。
内側から問いかける声なら常に聞こえていた。
でも、いつも蓋をした。
未練は無い。そう言い切れる生き方が出来ていなければならなかったから。
理想に殉じた生き方。死に方だろうか。
あるいは、本当に求めていたのは生きる意味だった筈。
それが手に入らないのなら、叶わないのなら、自分は一体どうすればいいのかと。
いつだって誰かに尋ねたかったし、いっそ喚き散らしたかった。救われたいと望むこと、許されたいと希うことが、こんなにも醜く愚かなことだと知ってしまったから。
罪は一生背負うもの。解放される日など永遠に来ない。
たとえ償い終えたとしても、犯した罪そのものが消えて無くなる日だけは絶対来ないのだ。
その事実と絶望を受け入れることこそ、真の償いの始まりだと気付いたのはいつだっただろう。
君には生きて欲しい。見届けたい。
出来ることなら助けたい。救いたい。
……そう願ったことも、本当だ。
ああそうか。僕はもしかすると、もう一度あの頃に戻れたのかもしれない。
やり直せるのかもしれない。繰り返すのではなく。
……そうだったらいいな。
離ればなれになる前に戻れるなんて、さすがに思えないから。
だから、せめて――。
ナナリーがここに居るということは、ルルーシュは無事なんだろう。あの女の子も。
良かった……。
またおぼろげになってゆく意識を手放して、僕は再び目を閉じた。
「どうか死なないで下さい、ゼロ……。いいえ、スザクさん。お兄様もきっと、貴方が生きることを望んでいらっしゃるから」
ナナリーが泣いている。
「大丈夫だよ」って、言ってあげなきゃ。
君を守ることも約束なんだ。だからもう少しだけ、待っていて欲しい。
僕はさっきの場所に戻らなければいけない。
まだ見ていない景色がある筈だから――きっと。
遮るものなど何も無い吹き抜けの回廊。一枚の絵の前で僕は佇んでいた。
土倉の中。ナナリーの笑顔。僕の笑顔。……ルルーシュの笑顔。
僕には解る。これは、彼が最期に見た記憶なのだと。
無邪気な笑い声。そこかしこで誰かがこちらを窺っていた。
柱の陰、壁の裏、あちこちに置かれた椅子の横。但し、姿を覗かせてはこない。
行き交う気配は確かにあるのに、振り返った瞬間に消えてしまう。
『ここに来てはいけない』
輪唱のようにさざめき合いながら、声なき幾つもの意思が伝わってくる。
二度目の覚醒。
僕は目を閉じたまま、さっきと同じ病室にいるのだと思っていた。
隣にナナリーの気配は無い。もう帰ったんだろうか。
あれからどのくらい経ったんだろう? 今が何月何日で、いつから眠っていたのかも解らない。
目を閉じているにも関わらず、窓の外が明るい。
突然辺りが輝いて、光の渦の中へと巻き込まれていく。
錯綜する黄色と茶色。大きなハート型の葉っぱ。途切れ途切れに揺れ動いていたものは、重そうに首を垂らした真夏の花だった。
――向日葵畑。
燦々と照りつける太陽。網膜を焦がすような眩しさが続き、僕は手を翳しながらようやく目を見開いた。
霞む視界。立ち上る蜃気楼。
はるか彼方に、人が立っているのが見える。
ぽつりと一人。ただ真っ直ぐにこちらを見つめて。
ルルーシュ。
顔はほとんど見えない。でも見間違える筈なんか無い。
淡く発光する輪郭。光そのもののように。
真っ白な衣装。皇帝服。
その裾と、艶やかな黒髪を風に靡かせて、彼がじっと僕を見つめている。
待て! 待ってくれ!!
叫んでから気付いた。まだベッドに横たわり、目も閉じたままだったのだと。
その証拠に、駆け出そうとした足は地面に縫い取られたかのごとく動かなかった。
今すぐ追いかけなければ。このままでは消えてしまう。
ルルーシュ、ルルーシュ、ルルーシュ!!
酷い焦燥に急き立てられながら、僕は幾度も名を呼んだ。
追いかけて、捕まえて。
……もう二度と、彼を喪わないように。
窓の横。ベッドの上。僕は動けない。
スッと光が遠ざかり、すぐ傍に誰かが居るのが解った。
寝ている僕の足元。どこから入ってきたのか、ベッドを迂回して静かに歩み寄ってくる。
カタリと枕元に響く小さな音。伏せられていた写真立てが起こされた音だ。
ふっと笑う気配。少し困ったような、それでいて呆れてもいるような独特の笑い方。
顔の横に、何かが置かれたのが解った。
僕の掌は布団の上に投げ出されていて、そこに手をかぶせるようにしてのせられたのは、軽い、まるで紙のようなもの。
これは―――?
頬を辿る細い指先。ほんのりと温かく、リアルな感触。
同時に、聞き取れないほど小さな囁きが耳に届いた。
『 』
真摯で力強い声。
同じ台詞を、前にもどこかで聞いた気がした。
いつの間にか僕は列車の中に居た。
流れる景色。走馬灯。実際は、死の際に見るそれとは違うと気付いていたけれど。
無声映画のように様々な場面が外をすり抜けていく。
一場面ごとに、丁寧に再生される映像。聞こえもしないのに古い映写機の音が聞こえるようだった。
……どれも覚えがある。僕の記憶だ。
中には果たせなかった約束まで混ざっていた。
海辺で釣りをする、僕とルルーシュとナナリー。目覚めた時には何もかも忘れてしまうのかもしれない。
一つとして取りこぼすまいと、僕は目を凝らした。
見たかったルルーシュの部屋も通り過ぎた。
クラブハウスの、十七歳だった彼の部屋。
残しておいてあげたかった。壊したくなんかなかった。……それなのに。
そうだ。
僕が消してしまった。
僕が彼から、奪ってしまったんだ。
校門前。先を歩く学生服姿。
背中に向かって呼び止めると振り返るルルーシュ。駆け寄る僕。
彼が浮かべた控えめな微笑み。そこに滲み出る嬉しさ。
僕は気付けたし、察することが出来た。ルルーシュが隠そうとするものですら手に取るかのように。
そんな自分が誇らしかった。
見えない糸で固く繋がれている。その相手が彼なのだと、僕は信じた。
頬に一筋の涙が伝っていく。零れ落ちると同時に視界がクリアになった。
今見ているこの記憶こそが本物だと、確かめずとも解る。多分終着点が近いのだろう。
……この夢はもうじき、終わりを告げる。
偽りの経歴、嘘の名前。それでもルルーシュが本当は帰りたいと願っていた場所。
一つ一つ、彼は居場所を失っていった。大切なものも、人も。沢山。
そこにどれだけの後悔と悲しみがあったのか。
僕らは互いに否定し合い、対立することしか出来なかった。
手を取り合えたのは、わずか数ヶ月。
悲哀を帯びた空虚と決意の狭間で、僕は世界の無常さと不条理、運命や宿命が齎すあらゆる理不尽への怒りを押し殺していた。
約束だから。その一言に、心ごと無理やり閉じ込めて。
彼は笑っていた。只の悪になり切って。
それは優しい嘘だった。
僕がずっと出来ずにいた、受け入れること。
彼はやってのけた。誇り高く。
自分だけのためじゃない。守りたい全ての人々のために。
最後に見たのは、やはりあの土倉だった。
薄暗い中に差し込む窓の光。
……十歳のルルーシュが、そこに居た。
彼は一人きりで、一生懸命何かを作っている。
色とりどりの折り紙。
座り込む彼の足元を埋め尽くすのは、数え切れないくらいの、無数の折鶴。
こめかみが震えて、どっと涙が溢れた。
一気に歪む視界。急いで目頭を擦るその間も、ルルーシュは拙い手つきでひたむきに鶴を折り続けている。
すれ違っていく。触れられない。
愛しい景色は確かに、そこにあるのに。
両手と頬を窓ガラスに押し付けて、僕はたった今見た彼の姿を必死で追う。
折り終えた鶴を掌にのせて、小さなルルーシュはそっと微笑んだ。
「ああ……あああっ……! ああああっ、わああああああああっっ……!!」
無人の車両に声にならない叫びが響く。
立っていられなくなり、膝から崩れ落ちた。
ルルーシュ。
君は今も悼んでいるのか? 懺悔しているのか?
何枚折るんだ。
幾つ作るんだ?
それは死者の数と同じだろうか。
違う。それだけじゃない。
彼は祈っているのだ。心から。
今を生き、明日へと向かう、万人の平和と幸福を。
列車がトンネルに差し掛かる。
通り過ぎてきた日々はどれも輝いていた。
辛く苦しい記憶。憎悪と悔恨に塗れた夜。
忌まわしいはずの過去でさえ、大切に思えた。
君がいない。
でも、この先も決して消えることは無いんだ。
ルルーシュはいる。今もまだ。
あの向日葵畑に。あの土倉に。――僕の心に。
目を閉じれば蘇る。
君は囁く。
いつかと同じ。
たった三文字の、願いの言葉。
「スザクさん! スザクさん!………………ゼロ!」
目尻から流れ落ちる涙。
今度こそ知らない天井だった。
低い嗚咽はやがて慟哭となり、僕は消えゆく夢の欠片を我武者羅にたぐり寄せた。
身を引き裂かれるような哀しみの名前。
それは、狂わんばかりのいとおしさ。
あんなにも尊いひとを、僕は他に知らない。
ルルーシュ。
ルルーシュ。
君がいない。
…………いいや、いる。
隣に目を向けると、顔の横に置かれていたのは写真立てだった。
窓一つ無い、暗い部屋。
その中で笑う幼い頃の僕とルルーシュ、そしてナナリー。
いつからか伏せるようになっていたそれを、僕は久しぶりに見た。
死んだ者の名を呼び起こす。
溢れてくる万感の想い。
尽きぬ謝罪と深い感謝。
涙、涙、涙。
腕へと伸びる細い点滴の管。
僕はもう、自分の掌の中に何があるのか知っていた。
そこへと重ねられた別の手もまた、夢の中と同じく、優しくてあたたかい。
七月十日。
僕が生まれたこの日。
僕は無事、この世に生還した。
+++++
いらないかもしれないあとがきが以下反転で隠れてます。
携帯の方は白字でも表示されてしまうのでそのまま閉じて下さい。
↓
ルルーシュがスザクにプレゼントするなら何をあげるだろうなって、想像してみたらこうなりました。
夢特有の意味のわからなさ、不思議さが出せていれば成功です。
多分このスザクさんはゼロレクから数十年後くらいのスザクさんで、そろそろスザクだった部分も完全に消えかけてたんじゃないかという気がします(ゼロレクの時に死んだは死んだけれども)
ルルーシュって、漢字で「神様」じゃなくて、「かみさま」みたいだよね……。
生きろスザク。お誕生日おめでとう。