Lost Paradise 10(スザルル)
10
目覚めた時には既に真夜中を過ぎていた。
付けっ放しにされた明かりが煌々と室内を照らす中、真隣に視線を向けると、ルルーシュがほの白い胸を上下させながらすやすやと穏やかな寝息をたてている。
再会当日とほとんど変わらない状況だ。あの後、何をと問う間も無く食卓を片したルルーシュに手を引かれ、俺は誘われるままルルーシュを抱いた。
ルルーシュは未だ一糸纏わぬ姿でベッドに横たわっている。上掛けから覗く素肌には其処此処と無く赤い鬱血の跡が浮かび上がり、脱ぎ捨てられた衣類は無造作に床の上へと散らばされていた。
どうやら疲れ切った末に二人して眠ってしまったようだ。
――どうしようか。軽く吐息して考えた俺は、あどけないルルーシュの寝顔から整理整頓の行き届いた室内へと目を移した。
こんなことなら最初から着替えを持ってくるべきだった。制服も部屋だ。今日から登校するというのに、まだ何の支度も済んでいない。
「ん……」
身じろぎした俺の気配に気付いたのか、ルルーシュがうっすらと目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃったかな」
飛び込んでくる光が眩しかったのだろう。ルルーシュは開きかけた瞼をぎゅっと瞑ってから幾度か瞬かせ、首を巡らせてぼんやりと俺を見返してくる。
「どうしたんです……? 今、何時だ……?」
眠そうに目を擦りながら起き上がろうとしたルルーシュに「二時だよ」と告げると、ルルーシュはふと動きを止めてから俺を見た。
「もしかして、部屋に?」
「うん、一回戻ろうかと思って。学校の支度とかまだなんだ」
「今から……?」
朝になってからでも、と呟いたルルーシュが表情を曇らせる。
同じクラブハウス内だ。用意に然程時間はかからない。――と、考えかけてから思い出す。
「毎朝トレーニングしてるんだ。こっちに来ても一応続けないと」
「走ったりするんですか?」
「うん。六時には起きるよ」
「そうですか……」
名残惜しそうではあるものの、ルルーシュは寂しそうな笑みを浮かべながら布団に潜り込もうとする。
「寒くないか?」
上掛けを引き上げて首の辺りまで覆ってやると、ルルーシュは僅かに目を瞠ってからハッとしたように俺の手元を見た。
どうやら自分が裸のままだったことを急に思い出したらしい。何もする気はないと安心させるために笑いかけてみたが、もそもそと布団を手繰り寄せる動作は、ややぎこちない。
「軍人さんって大変なんですね」
「そうでもないよ。体力作りは昔からの習慣だから」
言いながら俺はベッドを降りた。
ルルーシュはシャツを羽織る俺の姿をじっと見つめている。本当は引き止めたいのだろう。とろんと落ちかかってくる瞼を懸命に開いて見送ろうとするさまがどうにも寂しそうで、俺は思わずその頭に手を伸ばした。
「寝てていいよ。朝になったら、また来るから」
自分でもどうしてこんな台詞を? と疑問に感じたが、躊躇いと同時に浮かんだのはそんな自身への言い訳だった。……きっと今だって、歪められた記憶のせいで生き辛さを抱えているに違いないのだから、と。
さらさらした手触りのいい黒髪を撫でながら「起こしてあげようか?」と尋ねると、ルルーシュはうっとりと目を閉じたまま控えめに首を振る。
「朝食作って待ってますよ、俺は。体を動かすならお腹が空くでしょう?」
「昨夜の残りでいいよ」
「そういう訳には……」
「いいから」
困り顔で言い募るルルーシュを俺は敢えて遮った。
ルルーシュは何も言わないが、昨日は本当に気の毒なことをした。結局ほとんど手を付けぬまま片付けさせてしまったことが今更のように悔やまれる。
「まだ保存してあるんだろう? 折角作ってくれたのに勿体無いよ。凄く美味しかったのに」
「本当ですか?」
「ああ、何なら弁当にしてくれてもいい。昼休みになったら二人で屋上に行かないか? そこで一緒に食べよう」
「わかりました」
これ以上気遣わせまいと思って提案してみれば、ルルーシュは心底嬉しそうに破顔した。
枕元に手を付くと、俺を見上げる紫玉に幾許かの緊張が走る。散った黒髪を丁寧に梳いてから頬に手を添えたところで、ルルーシュは交差する視線に促されるままゆっくりと全身の強張りを解いていった。
閉じられた瞼に口付けながら思う。
こんなにも初心だというのに、随分思い切った行動に出たものだ。昨夜俺の手を引いたことにしても、誘ったというよりは慰めるつもりでいたことなど訊くまでもない。
それとて全て俺の為なのかと思えば、浮かぶ言葉は「献身」の二文字。
覚えたての睦言に対する照れと恥じらい。物慣れない仕草の中に見え隠れする色めいた艶。
一度離れてから間近で見下ろしていると、けぶるような長い睫がピクリと動き、やがてゆうるりと瞼が開かれていく。
不可思議な色をした大きな瞳。性差ですら超えたしどけない色気に引き寄せられるが如く唇を重ねれば、ルルーシュは陶然とした面持ちで大人しくそれを受け入れた。
「それじゃ、また後で」
離れる間際、頬へと掠めるような口付けを送る。首肯の代わりに緩く瞬いたルルーシュは、そのまま目を閉じて再び穏やかな眠りに就いた。
安心し切った寝顔を眺めながら、俺は幼少時の彼を思い出す。
誰にも庇護されぬまま人質として敵国へと送り込まれ、周囲に居る人間全てを敵と判じることでしか生きられなかった孤独な皇子としてのルルーシュを。
俺に気を許してからでさえ、彼は決して警戒を緩めたりしなかった。まして、こんな風に安心し切った顔で眠っているところなど見たことはない。
ルルーシュは、いつも何かから身を守るように体を固めて眠るのだ。
一年前でさえ、その癖は直っていなかった。横向きになって蹲り、いつも小さく縮こまったまま眠っていた。
向けられた背を抱き寄せても体の強張りを解くことはおろか、こちらを向くことさえほとんど無く、ほんの僅かな物音を聞きつけるだけですぐ起きてしまう。
今思えば、それもゼロとして緊張を強いられる立場に自らを置いていたからこそだったのか……。
詮無きことだと嘆息しながら、俺はルルーシュの私室を後にした。
今のルルーシュはあまりにも無垢で、さながら一輪の花のようだ。想起させられるのはナナリーと接していた兄としての姿。
俺にいい面だけを見せようとしているから「こう」なのだろうか。
少なくとも、軽口を言える程度には打ち解けている。ルルーシュは昔から気を許していない相手に対してはおそろしく無口になる子供だったが、それは逆を言えば、口が悪くなればなるほど気を許しているという証拠でもあるのだ。
嘗ての彼は、喩えて言うなら毒花だった。……ならば今の彼は何だろう。咲くこともなく、実を結ぶこともなく散ってしまう徒花なのだろうか。
――本当に?
では、もし最初から、優しさだけに包まれて育っていたら?
『本当の顔って、何です?』
ふと、昨夜聞いたルルーシュの言葉が頭を過ぎった。
慈しんでいた、と言い当てられ、粗を探す目でルルーシュを見ることにも早々と疲れ始めている。
『貴方になら嘘を吐かれても構わない』
そんなルルーシュの言葉に心も折れた。
……俺だって嘘をついている。一年前からずっと。
『僕』という仮面を被ってしまった以上、素の自分としては相対出来ない。昔と同じ関係を求められても、俺にとってだけ昔と同じ自分であってはならない理由があり、それをルルーシュに知らせることはどうしても出来なかったからだ。
知って欲しい、気付いて欲しいと思う反面、知られたくないと恐れる気持ちも本物で。
ルルーシュのせいにしてはいけない。
そう思う時点で、彼に責任を被せたがっている自分がどこかに居るかもしれないことが何よりも怖かった。
八年前の父殺し。それをルルーシュに知られてしまってからは尚のこと距離を置かざるを得なくなり、俺自身の過去を知る彼から逃れたいと思ったことさえあった。
――でも、ルルーシュは。
語気も荒く責め立てた俺に言い返すどころか、ただ癒そうとするだけで――。
『大切な友達に嘘をついて、裏切っても平気でいられる『人間』なんていない』
心を抉られたこの言葉。
……では、ルルーシュはもしかして、「嘘をつく自分は人間ではない」と思っていたのだろうか。あの仮面を被って俺に言い放った否定の言葉は?
つかつかと進めていた歩が止まる。
ルルーシュは、本当はどういう気持ちだったのか。
罪悪感や疚しさを感じてくれていたのか。
嘘をつくことは苦しかったか? 痛かっただろうか?
「君は俺の為に、少しでも苦しんでいてくれたのか……?」
応えの返らない問いかけが廊下に響いた。立て続けに、またもルルーシュの言葉が脳裏を過ぎる。
『そういう人だったんですか? 貴方の友達は』
疚しさなど感じることなく嘘を吐ける人間だっている。そう言った俺に、ルルーシュはこう答えた。
――ルルーシュ。
もしそれが君の本心だったというのなら、答えて欲しい。
そんな君が、何故ユフィを? 俺に「生きろ」とギアスをかけた君が、何故――?
隣の棟へと戻った俺は、新たな自室となった部屋のドアを開く。
引っ越してきたといっても私物は少ない。必要な身の回り品はこちらで適当に買い揃え、本国に戻る際には全て捨てるつもりでいた。
何に対しても執着がない。そんな生き様を晒すことでしかバランスを保てない自分がいる。
持って来たものは数着の衣類と軍服、それから制服。後は、トレーニングの際に着る胴着と袴くらいだ。
クローゼットを開き、幼い頃から着慣れた胴着と袴を目の前にしながら、俺は暗澹たる思いを打ち払おうとかぶりを振った。
トレーニングなど、とてもではないが今はする気になれない。でも、体を動かせば少しは気分も紛れるだろうか。
……いや、駄目だ。考えを整理するために一人になろうと思ったんだろう。それよりも早急に考えなければならないことがある筈だ、俺には。
自分の気持ちに向き合わなければ、もう先に進むことは出来ない。そう気付いてしまったのだから……。
クローゼットの扉を閉じてベッドに腰掛けた俺は、そのままごろりと寝転んだ。
糊の効いたシーツの感触。つい先程まで床を共にしていたルルーシュの寂しげな表情を思い出す。
後ろ髪を引かれる思いで出てきたものの、トレーニングがあるなどというのは所詮只の言い訳に過ぎない。角が立たぬようルルーシュの部屋を辞してくるための。
許したいのか、許せないのか。……許してもいいのか。
そこまで考えてから、胸を掠めていくのはユフィのことだった。
そんな選択肢など、初めから無いと決めてかかっていた。あり得ない。寧ろあってはならないとさえ。
けれど、憎んでいることも本当なのに求めてしまう。どうあっても惹かれてしまうのだ。
ルルーシュは言った。
『仮に思いの全てを裏切られたとしても、もしこの先貴方を憎むことがあったとしても、俺はきっと、心の底から貴方を憎み切ることなど出来はしない。たとえ憎んでも、決して嫌いになり切ることなんか俺には出来ない』
『貴方もそうでしょう? だからこそ、そんなにも苦しんでいるんじゃないんですか?』
――その通りだ。
悔し紛れに目を瞑れば、そこに広がるのは果ての無い暗闇。
まるで八年前の自分に戻ってしまったみたいだ。あの頃も……いや、本当はあの頃からずっと、俺は暗闇の中でもがき続けているのかもしれない。
ベッドに横たわったまま、俺はこの一年間ずっと忌避し続けてきた自分の本心について考えた。
今のルルーシュがいかに純粋で健気であろうと、彼の言うことが本来のルルーシュの発言だと鵜呑みにしてしまう訳にはいかない。
偽りの記憶から目覚めたルルーシュは、きっと一年前と同じ道を行く。
ギアスがかかっているとはいえ、抑圧された部分が既に出てきている。まるで演技が出来ないという確証もない。……危険すぎる。
俺の中に生まれたもう一つの選択肢。――「ルルーシュを許す」ということ。
彼を許すためには相応の理由が必要になる。そして、覚悟も。
友達だと言ったのに何故俺を騙したのか、何故裏切ったのか。ユフィを殺した本当の理由。俺に「生きろ」とギアスをかけた理由。
それら全てを本人の口から直接聞き出すまでは、許すわけにはいかない。
けれど、もしルルーシュの記憶が回復したら――。
C.C.を確保した後は、ルルーシュを殺さなければならない。それが俺の本来の任務だ。
この学園の生徒や教師達は全員サクラであり監視員でもある。C.C.とルルーシュが接触したとなれば、地下の機情、及び俺にもすぐ連絡が入るようになっている。
学園内は二十四時間体勢で厳重な監視体制と警備の下に置かれ、仕掛けられたカメラやマイクの台数は延べ数百台。ルルーシュの部屋は勿論のこと、学園内の全施設には防犯システムが完備され、スイッチ一つで押された部屋の出入り口にロックが掛かり、ドアのみならず窓にも鉄柵が下りる仕組みになっている。
また、ロックが掛かった時点でその室内には催眠ガスが放出されるため、閉じ込められた者は否応なく、そのまま中で眠らされてしまうという訳だ。
手動でも操作可能。……つまり機情でも操作出来る上、女性恐怖症のルルーシュがC.C.と遭遇した際、自分で防犯スイッチを押しても作動する――そういう仕掛けだった。
これであれば、たとえC.C.が仕掛けてこようが、ルルーシュがゼロとして覚醒しようが関係ない。C.C.諸共ゼロに戻ったルルーシュも同時に確保することが出来る。
要塞化されたこの学園は、ルルーシュを閉じ込める鳥篭であるのと同時に巨大な牢獄でもあった。有事の際には即・封鎖されるため、それこそナイトメアか重火器、爆薬等を使用して外側から壁をブチ破りでもしない限り、ルルーシュとC.C.が共に脱出するのはまず不可能だ。
地下には機情、政庁とも数キロと離れておらず、学校でもプライベートでも俺が付きっ切りで随伴することとなった今、ほぼ隙が無い状態だと言っていい。
故に、問題となるのはルルーシュが学園外に出た時だけだ。
出掛ける時も監視と尾行付きではあるものの、目の届かない校外に出た時こそ接触する可能性が最も高くなる。
しかし、過去のトラウマから、ルルーシュは基本的に外出しない。用事がある時も一人歩きを避け、友人連れで出かけるのが常だった。
日常生活に不自由無い程度に会話は出来るものの、ルルーシュは見知らぬ女性に接近されたり話しかけられたりすることを極端に怖がっている。
最初は一人きりで出かけようとしていたようだが、外出したルルーシュに女性監視員を数人嗾けたところ、ついに一人きりで出歩くことは無くなった。
……勿論、そうなるよう仕向けたのが俺であることなどルルーシュは知らない。
だが、この状態であれば、C.C.は嫌でも学園に乗り込んでくるしか無いだろう。
当然やってきた時点で捕まることになるだろうが、考慮しておくべきケースもある。……単身ではなく、複数で乗り込んできた場合だ。
元・黒の騎士団の主要メンバーは数人を除く全員が検挙済みとなっているが、神根島で行方をくらませたカレン等、まだ逃げ延びている者が数名残っている。彼女を始め、地下協力員等、残党を率いて強襲してこられると少々厄介だった。
とはいえ、ギアスのことがある以上、一対一になるタイミングは必ずあるだろう。
C.C.に接触させないまま記憶回復させるように仕向けるか? 今の状況であればそうすることも可能なはず。
だがその場合、C.C.には勿論のこと、機情にも、そして学園の生徒や教師達にも決してそれを悟られてはならない。
――そして。
ルルーシュがゼロとして復活すれば、彼はきっと、また俺に嘘を吐く。
ブリタニアに売られた恨みがある以上、ルルーシュが俺を許すことなど決して無いだろう。ましてや本心など絶対話さない。
つまり、どうあっても敵対せざるを得なくなる。
彼の演技を見破れず、記憶回復したタイミングを見誤りでもすれば全てが終わりだ。
頭の切れるルルーシュのこと。ギアスの力を取り戻したとなれば、即、この牙城を切り崩しにかかることだろう。監視者を操ることなど造作もない。機情内部へと手引きさせることも。
そうなれば学園内の全システムはすぐ穴だらけにされ、最悪、機情そのものが乗っ取られてしまう。
万一取り逃がすようなことにでもなれば、贖罪の道は絶たれるも同然。かといって、C.C.を釣り出す前に記憶回復したことが明らかとなれば、ルルーシュは捕らえられ、C.C.をおびき寄せる餌としてさえ生きられるかどうか解らない。
皇帝のギアスに回数制限が無ければ再び記憶を弄られ、一度きりであるならルルーシュは確実に殺される。
――と、そこまで考えた俺は、はたと我に返った。
そもそもだ。
ルルーシュの記憶が戻り、仮に上手く本心を訊き出せたとして、俺はその後どうするのか。
忘れていないか? 俺の任務はC.C.を確保し、ルルーシュの記憶が回復し次第彼を殺すこと。……いや、忘れてはいない。
では、どうする?
任務に従いルルーシュを引き渡すのか。それとも殺すのか……?
不意に浮かんだのは、昨夜見たルルーシュの笑顔だった。まるで花が綻ぶような、儚くも美しく、慈愛に満ちた優しい微笑み。
耳朶を打つ甘い囁き。握られた掌の温かさ。寂しそうな表情。子供のようにあどけない寝顔。
幼少の折、果物の籠を抱きかかえたまま泣いていたルルーシュの姿がふと浮かんだ。ずっと可愛げがないと思っていたのに、初めて見た笑顔を綺麗だと思ったことも。
自分でも信じられないことに、嬉しかった。そう思った十歳の俺。
聞こえない筈の声が耳の奥で蘇る。
『どうせその毒ガスだって、ブリタニアが作ったんだろう。殺すな? だったら、ブリタニアをぶっ壊せ!』
マスクを外して名前を呼んだ瞬間、驚きに瞠られた薄闇の中の紫玉。
屋根裏部屋で話そう。襟を引くルルーシュ。
教室で本を読んでいる端正な横顔。ナナリーと話している時の穏やかな表情。三人で仲良く海辺で遊んだ記憶。
楽しかった。とても。
もう二度と会えないと思っていたからこそ、かけがえの無い時間だと大切にしていた。信じていた。
――それなのに。
銃を構えたゼロ。胸を打ち抜かれたユフィ。スローモーションのように倒れていく光景。
モノクローム。一瞬の沈黙。
ブレる視界。
響く俺の絶叫。
……最後に、仮面が割れた瞬間に現れたルルーシュの無表情。
そしてまた、昨夜見たルルーシュの笑顔がそこへと重なっていく。
フラッシュバックする過去と今。一挙に想起される全てのルルーシュ。
――駄目だ。ただそう思った。
強く頭を振り、俺はひたすら考える。
殺す? あのルルーシュを?――違う。俺が殺すのはゼロだ。
許す? それはつまり、皇帝の命に背いてルルーシュと共に逃げるということか?
動悸が激しくなり、引き攣れたように呼吸が浅くなり、意識が遠のきそうになる。ベッドの上で蹲った俺は、無意識の内にシーツをきつく握り締めて自分の胸を押さえていた。
ごろりと上を向き、大きく息を吐き出す。
真っ白な天井に狂わされる遠近感。窓外へと視線を移せば、紺碧の空は既に白みかけている。
あと数時間で夜が明ける。混乱した頭のどこかで冷静に考えられたことは、たったそれだけだった。
どうする。俺はどうすればいい? 何をどこから、どう考えればいいんだ?
噛み締めた奥歯が、ぎり、と嫌な音を立てた。何もかもが行き詰まり、混迷し続けている考えが現実との間で板挟みとなって、ますます訳が解らなくなっていく。
このまま記憶を失ったままでいてくれれば。そう思う反面、ルルーシュの本質について確かめたい気持ちは増していくばかり。
だとしたら、俺はどうすべきなのか。
いや……俺は。
本当はどうしたい――?
目覚めた時には既に真夜中を過ぎていた。
付けっ放しにされた明かりが煌々と室内を照らす中、真隣に視線を向けると、ルルーシュがほの白い胸を上下させながらすやすやと穏やかな寝息をたてている。
再会当日とほとんど変わらない状況だ。あの後、何をと問う間も無く食卓を片したルルーシュに手を引かれ、俺は誘われるままルルーシュを抱いた。
ルルーシュは未だ一糸纏わぬ姿でベッドに横たわっている。上掛けから覗く素肌には其処此処と無く赤い鬱血の跡が浮かび上がり、脱ぎ捨てられた衣類は無造作に床の上へと散らばされていた。
どうやら疲れ切った末に二人して眠ってしまったようだ。
――どうしようか。軽く吐息して考えた俺は、あどけないルルーシュの寝顔から整理整頓の行き届いた室内へと目を移した。
こんなことなら最初から着替えを持ってくるべきだった。制服も部屋だ。今日から登校するというのに、まだ何の支度も済んでいない。
「ん……」
身じろぎした俺の気配に気付いたのか、ルルーシュがうっすらと目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃったかな」
飛び込んでくる光が眩しかったのだろう。ルルーシュは開きかけた瞼をぎゅっと瞑ってから幾度か瞬かせ、首を巡らせてぼんやりと俺を見返してくる。
「どうしたんです……? 今、何時だ……?」
眠そうに目を擦りながら起き上がろうとしたルルーシュに「二時だよ」と告げると、ルルーシュはふと動きを止めてから俺を見た。
「もしかして、部屋に?」
「うん、一回戻ろうかと思って。学校の支度とかまだなんだ」
「今から……?」
朝になってからでも、と呟いたルルーシュが表情を曇らせる。
同じクラブハウス内だ。用意に然程時間はかからない。――と、考えかけてから思い出す。
「毎朝トレーニングしてるんだ。こっちに来ても一応続けないと」
「走ったりするんですか?」
「うん。六時には起きるよ」
「そうですか……」
名残惜しそうではあるものの、ルルーシュは寂しそうな笑みを浮かべながら布団に潜り込もうとする。
「寒くないか?」
上掛けを引き上げて首の辺りまで覆ってやると、ルルーシュは僅かに目を瞠ってからハッとしたように俺の手元を見た。
どうやら自分が裸のままだったことを急に思い出したらしい。何もする気はないと安心させるために笑いかけてみたが、もそもそと布団を手繰り寄せる動作は、ややぎこちない。
「軍人さんって大変なんですね」
「そうでもないよ。体力作りは昔からの習慣だから」
言いながら俺はベッドを降りた。
ルルーシュはシャツを羽織る俺の姿をじっと見つめている。本当は引き止めたいのだろう。とろんと落ちかかってくる瞼を懸命に開いて見送ろうとするさまがどうにも寂しそうで、俺は思わずその頭に手を伸ばした。
「寝てていいよ。朝になったら、また来るから」
自分でもどうしてこんな台詞を? と疑問に感じたが、躊躇いと同時に浮かんだのはそんな自身への言い訳だった。……きっと今だって、歪められた記憶のせいで生き辛さを抱えているに違いないのだから、と。
さらさらした手触りのいい黒髪を撫でながら「起こしてあげようか?」と尋ねると、ルルーシュはうっとりと目を閉じたまま控えめに首を振る。
「朝食作って待ってますよ、俺は。体を動かすならお腹が空くでしょう?」
「昨夜の残りでいいよ」
「そういう訳には……」
「いいから」
困り顔で言い募るルルーシュを俺は敢えて遮った。
ルルーシュは何も言わないが、昨日は本当に気の毒なことをした。結局ほとんど手を付けぬまま片付けさせてしまったことが今更のように悔やまれる。
「まだ保存してあるんだろう? 折角作ってくれたのに勿体無いよ。凄く美味しかったのに」
「本当ですか?」
「ああ、何なら弁当にしてくれてもいい。昼休みになったら二人で屋上に行かないか? そこで一緒に食べよう」
「わかりました」
これ以上気遣わせまいと思って提案してみれば、ルルーシュは心底嬉しそうに破顔した。
枕元に手を付くと、俺を見上げる紫玉に幾許かの緊張が走る。散った黒髪を丁寧に梳いてから頬に手を添えたところで、ルルーシュは交差する視線に促されるままゆっくりと全身の強張りを解いていった。
閉じられた瞼に口付けながら思う。
こんなにも初心だというのに、随分思い切った行動に出たものだ。昨夜俺の手を引いたことにしても、誘ったというよりは慰めるつもりでいたことなど訊くまでもない。
それとて全て俺の為なのかと思えば、浮かぶ言葉は「献身」の二文字。
覚えたての睦言に対する照れと恥じらい。物慣れない仕草の中に見え隠れする色めいた艶。
一度離れてから間近で見下ろしていると、けぶるような長い睫がピクリと動き、やがてゆうるりと瞼が開かれていく。
不可思議な色をした大きな瞳。性差ですら超えたしどけない色気に引き寄せられるが如く唇を重ねれば、ルルーシュは陶然とした面持ちで大人しくそれを受け入れた。
「それじゃ、また後で」
離れる間際、頬へと掠めるような口付けを送る。首肯の代わりに緩く瞬いたルルーシュは、そのまま目を閉じて再び穏やかな眠りに就いた。
安心し切った寝顔を眺めながら、俺は幼少時の彼を思い出す。
誰にも庇護されぬまま人質として敵国へと送り込まれ、周囲に居る人間全てを敵と判じることでしか生きられなかった孤独な皇子としてのルルーシュを。
俺に気を許してからでさえ、彼は決して警戒を緩めたりしなかった。まして、こんな風に安心し切った顔で眠っているところなど見たことはない。
ルルーシュは、いつも何かから身を守るように体を固めて眠るのだ。
一年前でさえ、その癖は直っていなかった。横向きになって蹲り、いつも小さく縮こまったまま眠っていた。
向けられた背を抱き寄せても体の強張りを解くことはおろか、こちらを向くことさえほとんど無く、ほんの僅かな物音を聞きつけるだけですぐ起きてしまう。
今思えば、それもゼロとして緊張を強いられる立場に自らを置いていたからこそだったのか……。
詮無きことだと嘆息しながら、俺はルルーシュの私室を後にした。
今のルルーシュはあまりにも無垢で、さながら一輪の花のようだ。想起させられるのはナナリーと接していた兄としての姿。
俺にいい面だけを見せようとしているから「こう」なのだろうか。
少なくとも、軽口を言える程度には打ち解けている。ルルーシュは昔から気を許していない相手に対してはおそろしく無口になる子供だったが、それは逆を言えば、口が悪くなればなるほど気を許しているという証拠でもあるのだ。
嘗ての彼は、喩えて言うなら毒花だった。……ならば今の彼は何だろう。咲くこともなく、実を結ぶこともなく散ってしまう徒花なのだろうか。
――本当に?
では、もし最初から、優しさだけに包まれて育っていたら?
『本当の顔って、何です?』
ふと、昨夜聞いたルルーシュの言葉が頭を過ぎった。
慈しんでいた、と言い当てられ、粗を探す目でルルーシュを見ることにも早々と疲れ始めている。
『貴方になら嘘を吐かれても構わない』
そんなルルーシュの言葉に心も折れた。
……俺だって嘘をついている。一年前からずっと。
『僕』という仮面を被ってしまった以上、素の自分としては相対出来ない。昔と同じ関係を求められても、俺にとってだけ昔と同じ自分であってはならない理由があり、それをルルーシュに知らせることはどうしても出来なかったからだ。
知って欲しい、気付いて欲しいと思う反面、知られたくないと恐れる気持ちも本物で。
ルルーシュのせいにしてはいけない。
そう思う時点で、彼に責任を被せたがっている自分がどこかに居るかもしれないことが何よりも怖かった。
八年前の父殺し。それをルルーシュに知られてしまってからは尚のこと距離を置かざるを得なくなり、俺自身の過去を知る彼から逃れたいと思ったことさえあった。
――でも、ルルーシュは。
語気も荒く責め立てた俺に言い返すどころか、ただ癒そうとするだけで――。
『大切な友達に嘘をついて、裏切っても平気でいられる『人間』なんていない』
心を抉られたこの言葉。
……では、ルルーシュはもしかして、「嘘をつく自分は人間ではない」と思っていたのだろうか。あの仮面を被って俺に言い放った否定の言葉は?
つかつかと進めていた歩が止まる。
ルルーシュは、本当はどういう気持ちだったのか。
罪悪感や疚しさを感じてくれていたのか。
嘘をつくことは苦しかったか? 痛かっただろうか?
「君は俺の為に、少しでも苦しんでいてくれたのか……?」
応えの返らない問いかけが廊下に響いた。立て続けに、またもルルーシュの言葉が脳裏を過ぎる。
『そういう人だったんですか? 貴方の友達は』
疚しさなど感じることなく嘘を吐ける人間だっている。そう言った俺に、ルルーシュはこう答えた。
――ルルーシュ。
もしそれが君の本心だったというのなら、答えて欲しい。
そんな君が、何故ユフィを? 俺に「生きろ」とギアスをかけた君が、何故――?
隣の棟へと戻った俺は、新たな自室となった部屋のドアを開く。
引っ越してきたといっても私物は少ない。必要な身の回り品はこちらで適当に買い揃え、本国に戻る際には全て捨てるつもりでいた。
何に対しても執着がない。そんな生き様を晒すことでしかバランスを保てない自分がいる。
持って来たものは数着の衣類と軍服、それから制服。後は、トレーニングの際に着る胴着と袴くらいだ。
クローゼットを開き、幼い頃から着慣れた胴着と袴を目の前にしながら、俺は暗澹たる思いを打ち払おうとかぶりを振った。
トレーニングなど、とてもではないが今はする気になれない。でも、体を動かせば少しは気分も紛れるだろうか。
……いや、駄目だ。考えを整理するために一人になろうと思ったんだろう。それよりも早急に考えなければならないことがある筈だ、俺には。
自分の気持ちに向き合わなければ、もう先に進むことは出来ない。そう気付いてしまったのだから……。
クローゼットの扉を閉じてベッドに腰掛けた俺は、そのままごろりと寝転んだ。
糊の効いたシーツの感触。つい先程まで床を共にしていたルルーシュの寂しげな表情を思い出す。
後ろ髪を引かれる思いで出てきたものの、トレーニングがあるなどというのは所詮只の言い訳に過ぎない。角が立たぬようルルーシュの部屋を辞してくるための。
許したいのか、許せないのか。……許してもいいのか。
そこまで考えてから、胸を掠めていくのはユフィのことだった。
そんな選択肢など、初めから無いと決めてかかっていた。あり得ない。寧ろあってはならないとさえ。
けれど、憎んでいることも本当なのに求めてしまう。どうあっても惹かれてしまうのだ。
ルルーシュは言った。
『仮に思いの全てを裏切られたとしても、もしこの先貴方を憎むことがあったとしても、俺はきっと、心の底から貴方を憎み切ることなど出来はしない。たとえ憎んでも、決して嫌いになり切ることなんか俺には出来ない』
『貴方もそうでしょう? だからこそ、そんなにも苦しんでいるんじゃないんですか?』
――その通りだ。
悔し紛れに目を瞑れば、そこに広がるのは果ての無い暗闇。
まるで八年前の自分に戻ってしまったみたいだ。あの頃も……いや、本当はあの頃からずっと、俺は暗闇の中でもがき続けているのかもしれない。
ベッドに横たわったまま、俺はこの一年間ずっと忌避し続けてきた自分の本心について考えた。
今のルルーシュがいかに純粋で健気であろうと、彼の言うことが本来のルルーシュの発言だと鵜呑みにしてしまう訳にはいかない。
偽りの記憶から目覚めたルルーシュは、きっと一年前と同じ道を行く。
ギアスがかかっているとはいえ、抑圧された部分が既に出てきている。まるで演技が出来ないという確証もない。……危険すぎる。
俺の中に生まれたもう一つの選択肢。――「ルルーシュを許す」ということ。
彼を許すためには相応の理由が必要になる。そして、覚悟も。
友達だと言ったのに何故俺を騙したのか、何故裏切ったのか。ユフィを殺した本当の理由。俺に「生きろ」とギアスをかけた理由。
それら全てを本人の口から直接聞き出すまでは、許すわけにはいかない。
けれど、もしルルーシュの記憶が回復したら――。
C.C.を確保した後は、ルルーシュを殺さなければならない。それが俺の本来の任務だ。
この学園の生徒や教師達は全員サクラであり監視員でもある。C.C.とルルーシュが接触したとなれば、地下の機情、及び俺にもすぐ連絡が入るようになっている。
学園内は二十四時間体勢で厳重な監視体制と警備の下に置かれ、仕掛けられたカメラやマイクの台数は延べ数百台。ルルーシュの部屋は勿論のこと、学園内の全施設には防犯システムが完備され、スイッチ一つで押された部屋の出入り口にロックが掛かり、ドアのみならず窓にも鉄柵が下りる仕組みになっている。
また、ロックが掛かった時点でその室内には催眠ガスが放出されるため、閉じ込められた者は否応なく、そのまま中で眠らされてしまうという訳だ。
手動でも操作可能。……つまり機情でも操作出来る上、女性恐怖症のルルーシュがC.C.と遭遇した際、自分で防犯スイッチを押しても作動する――そういう仕掛けだった。
これであれば、たとえC.C.が仕掛けてこようが、ルルーシュがゼロとして覚醒しようが関係ない。C.C.諸共ゼロに戻ったルルーシュも同時に確保することが出来る。
要塞化されたこの学園は、ルルーシュを閉じ込める鳥篭であるのと同時に巨大な牢獄でもあった。有事の際には即・封鎖されるため、それこそナイトメアか重火器、爆薬等を使用して外側から壁をブチ破りでもしない限り、ルルーシュとC.C.が共に脱出するのはまず不可能だ。
地下には機情、政庁とも数キロと離れておらず、学校でもプライベートでも俺が付きっ切りで随伴することとなった今、ほぼ隙が無い状態だと言っていい。
故に、問題となるのはルルーシュが学園外に出た時だけだ。
出掛ける時も監視と尾行付きではあるものの、目の届かない校外に出た時こそ接触する可能性が最も高くなる。
しかし、過去のトラウマから、ルルーシュは基本的に外出しない。用事がある時も一人歩きを避け、友人連れで出かけるのが常だった。
日常生活に不自由無い程度に会話は出来るものの、ルルーシュは見知らぬ女性に接近されたり話しかけられたりすることを極端に怖がっている。
最初は一人きりで出かけようとしていたようだが、外出したルルーシュに女性監視員を数人嗾けたところ、ついに一人きりで出歩くことは無くなった。
……勿論、そうなるよう仕向けたのが俺であることなどルルーシュは知らない。
だが、この状態であれば、C.C.は嫌でも学園に乗り込んでくるしか無いだろう。
当然やってきた時点で捕まることになるだろうが、考慮しておくべきケースもある。……単身ではなく、複数で乗り込んできた場合だ。
元・黒の騎士団の主要メンバーは数人を除く全員が検挙済みとなっているが、神根島で行方をくらませたカレン等、まだ逃げ延びている者が数名残っている。彼女を始め、地下協力員等、残党を率いて強襲してこられると少々厄介だった。
とはいえ、ギアスのことがある以上、一対一になるタイミングは必ずあるだろう。
C.C.に接触させないまま記憶回復させるように仕向けるか? 今の状況であればそうすることも可能なはず。
だがその場合、C.C.には勿論のこと、機情にも、そして学園の生徒や教師達にも決してそれを悟られてはならない。
――そして。
ルルーシュがゼロとして復活すれば、彼はきっと、また俺に嘘を吐く。
ブリタニアに売られた恨みがある以上、ルルーシュが俺を許すことなど決して無いだろう。ましてや本心など絶対話さない。
つまり、どうあっても敵対せざるを得なくなる。
彼の演技を見破れず、記憶回復したタイミングを見誤りでもすれば全てが終わりだ。
頭の切れるルルーシュのこと。ギアスの力を取り戻したとなれば、即、この牙城を切り崩しにかかることだろう。監視者を操ることなど造作もない。機情内部へと手引きさせることも。
そうなれば学園内の全システムはすぐ穴だらけにされ、最悪、機情そのものが乗っ取られてしまう。
万一取り逃がすようなことにでもなれば、贖罪の道は絶たれるも同然。かといって、C.C.を釣り出す前に記憶回復したことが明らかとなれば、ルルーシュは捕らえられ、C.C.をおびき寄せる餌としてさえ生きられるかどうか解らない。
皇帝のギアスに回数制限が無ければ再び記憶を弄られ、一度きりであるならルルーシュは確実に殺される。
――と、そこまで考えた俺は、はたと我に返った。
そもそもだ。
ルルーシュの記憶が戻り、仮に上手く本心を訊き出せたとして、俺はその後どうするのか。
忘れていないか? 俺の任務はC.C.を確保し、ルルーシュの記憶が回復し次第彼を殺すこと。……いや、忘れてはいない。
では、どうする?
任務に従いルルーシュを引き渡すのか。それとも殺すのか……?
不意に浮かんだのは、昨夜見たルルーシュの笑顔だった。まるで花が綻ぶような、儚くも美しく、慈愛に満ちた優しい微笑み。
耳朶を打つ甘い囁き。握られた掌の温かさ。寂しそうな表情。子供のようにあどけない寝顔。
幼少の折、果物の籠を抱きかかえたまま泣いていたルルーシュの姿がふと浮かんだ。ずっと可愛げがないと思っていたのに、初めて見た笑顔を綺麗だと思ったことも。
自分でも信じられないことに、嬉しかった。そう思った十歳の俺。
聞こえない筈の声が耳の奥で蘇る。
『どうせその毒ガスだって、ブリタニアが作ったんだろう。殺すな? だったら、ブリタニアをぶっ壊せ!』
マスクを外して名前を呼んだ瞬間、驚きに瞠られた薄闇の中の紫玉。
屋根裏部屋で話そう。襟を引くルルーシュ。
教室で本を読んでいる端正な横顔。ナナリーと話している時の穏やかな表情。三人で仲良く海辺で遊んだ記憶。
楽しかった。とても。
もう二度と会えないと思っていたからこそ、かけがえの無い時間だと大切にしていた。信じていた。
――それなのに。
銃を構えたゼロ。胸を打ち抜かれたユフィ。スローモーションのように倒れていく光景。
モノクローム。一瞬の沈黙。
ブレる視界。
響く俺の絶叫。
……最後に、仮面が割れた瞬間に現れたルルーシュの無表情。
そしてまた、昨夜見たルルーシュの笑顔がそこへと重なっていく。
フラッシュバックする過去と今。一挙に想起される全てのルルーシュ。
――駄目だ。ただそう思った。
強く頭を振り、俺はひたすら考える。
殺す? あのルルーシュを?――違う。俺が殺すのはゼロだ。
許す? それはつまり、皇帝の命に背いてルルーシュと共に逃げるということか?
動悸が激しくなり、引き攣れたように呼吸が浅くなり、意識が遠のきそうになる。ベッドの上で蹲った俺は、無意識の内にシーツをきつく握り締めて自分の胸を押さえていた。
ごろりと上を向き、大きく息を吐き出す。
真っ白な天井に狂わされる遠近感。窓外へと視線を移せば、紺碧の空は既に白みかけている。
あと数時間で夜が明ける。混乱した頭のどこかで冷静に考えられたことは、たったそれだけだった。
どうする。俺はどうすればいい? 何をどこから、どう考えればいいんだ?
噛み締めた奥歯が、ぎり、と嫌な音を立てた。何もかもが行き詰まり、混迷し続けている考えが現実との間で板挟みとなって、ますます訳が解らなくなっていく。
このまま記憶を失ったままでいてくれれば。そう思う反面、ルルーシュの本質について確かめたい気持ちは増していくばかり。
だとしたら、俺はどうすべきなのか。
いや……俺は。
本当はどうしたい――?