夏風邪のルルーシュ 2
氷の入った枕と冷却シート。着替えに濡れタオルを二枚。
スポーツ飲料にミネラルウォーター。それから薬もちゃんと用意した。
きっと沢山汗をかくだろうから、念のためにバスタオルを一枚と、換えのシーツも一枚。……あと、洗面器。
さっき胸をさすっていたから、もしかしたら吐き気も少しあるのかもしれないし。
とりあえずこれでいいかな、と荷物をまとめた僕は、バスケットの中身を一つ一つ確認しながらルルーシュの部屋へと続く階段をゆっくりと上っていく。
汗、かいているといいけど。熱を下げるためには発汗させなきゃいけないから、まずは水分を沢山摂らせた方がいい。
……でも、飲めるだろうか。ルルーシュまだ起きてるかな。
とは言っても、寝ていなきゃ駄目なのも事実なんだけど。
僕は少し反省していた。さっきはちょっと言い過ぎた。本当に具合が悪そうだったのに。
人は心配すると怒るって、本当だったんだな。
ルルーシュが何を差し置いてもナナリーのことを最優先に考えるのは、昔からお決まりのパターンだ。いつもそれで無理ばかりして、自分のことを全て棚上げにしてでも常に妹のことばかり考えて。
彼らの境遇を思えば、それも無理からぬことなのかもしれない。ただでさえ、たった二人きりの兄妹だ。
――でも、と僕は敢えて思う。
何かと不安定なルルーシュを陰日向となって支えているのは、本当はナナリーの方なんじゃないのかと。
昔は違っていたけど、今のナナリーは、体のことさえ無ければルルーシュと離れて暮らすことだって出来るのかもしれない。
離れたが最後、生きられなくなるのはルルーシュだ。
だから、僕の目にはこう映る。
本当はナナリーのためというよりも、ルルーシュが自分自身のために彼女を過保護にしているのだと。
ルルーシュにとってたった一人の肉親である妹が、決して彼自身から離れていこうとしないように――。
部屋に入ると、少しだけ空気が篭っていた。
僕はドアの横にあるエアーコンディショナーの換気スイッチを押してから、ベッドの方へと歩み寄る。
ルルーシュは苦しげに胸を上下させながら眠っていた。薄く開いた唇から漏れ出す息が、少しだけ荒い。
足元を見回した僕はちょっと考えてから、手持ちのバスケットをベッドサイドに置かれた椅子の横に置いた。
暑くて寝返りでも打ったんだろうか。ルルーシュを見ると、首元まで覆った筈の布団が乱れて肩が露出している。
肌蹴たシャツの襟ぐりからそっと手を差し入れると、ルルーシュの肌はうっすらと湿り気を帯びていた。
……良かった。汗かいてる。
ほっと一息ついた僕は、床に置いたバスケットの中から濡れタオルを取り出し、汗で貼りついたルルーシュの前髪をかき分けてから丁寧に額を拭った。掌で湿り気を軽く抑えてから冷却シートのフィルムを剥がし、落ちてくる髪を抑えながら額にぺとりと貼り付けてやる。
「……っ」
すると、ルルーシュの瞼がピクリと動いた。きっと冷たかったんだろう。
目を覚ますかと思ったけれど、ルルーシュの瞼は開かない。一度緩やかに息を吐き出したその後は、心地よさそうな顔ですうすうと穏やかな寝息を立てている。
水分も取らせたいし、熱だって計ってやりたい。それに、薬も飲ませなきゃ。
あれもこれもと忙しなく考える中、僕の手が唐突にはた、と止まった。
……放っておけとか言われたって、こんなにも頼りないのに出来るわけないじゃないか、そんなこと。
意地っ張りだし、頑固だし、全くもって目が離せないような面倒くさい性格してるくせして、いつも憎まれ口ばっかり叩くんだから。
時々、本気で腹が立つよ。ルルーシュ。
子供の頃から思ってたけど、ホント、君って可愛くないよな。ちょっとは素直になってくれ。いつもこうやって、何かと僕を巻き込んでは困らせてばかりいるくせに。
ルルーシュはあくどくなった。再会してからは特に。
真面目に来いと言っているのに、学校には全然来ないし。それも、来ている時にまで平然と授業をサボろうとする。
出てたら出てたで寝ているし、裏社会の賭けチェスなんて非合法のギャンブルには手を出すし。
不良の元皇族なんて、聞いたことがないよ。
しかも、逃げたと気付いた僕が追いかけてくると解っていてサボろうとするところが特にあくどい。
君、絶対に楽しんでるだろ。
生徒会の皆も、ルルーシュのことで何か困ったことがあったら、とりあえず僕に訊けばいいと思ってる。
言っておくけど、僕はルルーシュの友達ではあってもお世話係じゃない。幾ら幼馴染とはいえ、別に四六時中一緒にいるわけじゃないんだから、何かある度にルルーシュのことを僕に訊かれても困るよ。
……いや、悪いのは皆じゃない。ルルーシュだ。
大体、普段から出席日数少ないくせして、どうして学校来てる時にまで屋上で電話なんかかけているんだ? 一体、どこの誰と話してるんだよ?
それに、気になることもある。
出先から電話をかけてくる時、ルルーシュがその所在について話してくれたことは一度もない。
最近は特に、その秘密主義ぶりに拍車がかかってる。一体どこから電話をかけてきているんだろう? それに、昼も夜も出掛けているようだけど、君はいつもどこで何をやっている?
少なくとも、賭けチェスなんかじゃないよな。
だって、リヴァルから聞いたんだ。「最近付き合いが悪い」って――。
確かに、ルルーシュは僕に対して「一緒に授業をエスケープしよう」とは一言も言っていないし、面倒を見てくれと頼んできたことだって一度もない。
……そう。結局、巻き込まれることを自主的に選んでるのは、いつも僕だ。
選んでるんじゃなくて、本当は選ばされている。多分そう言った方が正しい。
ルルーシュはいつも僕を惑わせる。――今日だって、君は無意識に僕を頼ってた。
君は、本当は知っているんだ。どういう時にどうすれば僕が動くのかちゃんと知っていて、いつも好き放題に振舞ってから「後のことは任せた」みたいに頼ってくる。すごく勝手だ。
僕はその度に「あ、また!」って思って、そして何だかんだで君に従ってしまう。
不本意ながらも、必ず面倒を見てしまうんだ。まるで身に染み付いた習性みたいに。
別に、それが嫌って訳じゃない僕も大概だけど……君は魔性だよ。時折、僕を弄んでいるのかと思うことさえある。
ずるいよ、ルルーシュ。
僕は普通の友達でいたいのに、君はいつだってそうはさせてくれない。
自分が僕を頼ってるってことについては絶対認めないくせに、君は解っているんだ。君を放っておくことの出来ない僕の気持ちを。
そして振り回す。かき乱すんだ。いつも。
……やっぱり、君は僕に甘えてる。
どう考えても、遠まわしに構われたがっているとしか思えない。
今日だって――。
と、そこまで思いかけた僕は、それ以上考えるのをやめておいた。だって、こうして挙げ出したらきりが無いから。
はあっと大きなため息をついた僕は、力無く横たわるルルーシュをまんじりともせず見つめた。
無茶ばっかりするんだから。
この分だと、しばらくは目を覚ましそうに無いな……。だったら、首にも冷却シートを貼った方がいいか。
あ。でも、その前に氷枕を当ててやらなきゃ。熱、少しは下がったかな。
確かめるために触れたルルーシュの首へと目をやった僕は、ふと気付く。
……細いなぁ、ほんとに。ちょっと力を入れただけで折れてしまいそうだ。
口を開けば毒ばかり吐くくせに、眠っているルルーシュの顔は性格とは真逆と言ってもいいくらいにあどけなくて、どこか無防備で、いっそたおやかにさえ見えてきて。
なんだか、妙に保護欲を誘われてしまって本当に困る。
全く、顔が良いって得だよ。
性格はひねくれてるくせして、寝顔は可愛いなんてちょっと反則だ。
いつも思うことだけど、とにかく放っておけない。まるで世話の焼ける弟のような、それでいて、僕より年上なのに手のかかる兄のような……。
そして、時として母親のような愛情深さで接してくる、僕の大切な友達。
――それなのに、そんな君と一緒にいる時の僕は、本当はちょっとだけ複雑だ。
普段ひんやりと冷たいルルーシュの体温は、今は子供のように高くなっている。ルルーシュの首から手を離した僕は、持ち上げた後頭部を支えながら枕を引き抜き、持ってきた氷枕と入れ替えた。
「ん……」
ぐったりしたまま、ルルーシュが小さく呻く。
僕は長い睫が震えているさまを見下ろしながら、これは学園の女の子たちがこぞって騒ぎ立てるのも無理はないな、となんとなく思った。
ルルーシュは昔から並外れて人目を引く姿の良い子供ではあったけど、成長してからは容姿の良さにも磨きがかかって、とんでもない美人になっていた。
君にとっては、目立つのなんか困ることでしかない筈なのにね。
まるでビスクドールのように整ったルルーシュの寝顔を見下ろしながら、僕は思わず苦笑した。
……それにしても、可愛いなぁ。こうして静かに眠っていると、本当にお人形さんみたいだ。
君はもう、ずっとそうやって眠ってたら? その方が、僕もよっぽど安心出来るんだけど……。
引き上げた布団を肩の上まで被せてから椅子に腰掛けた僕は、心の中でルルーシュに語りかけながら思い出す。
かなり苛めていたなぁ、小さい頃は。何かというと、すぐ「男のくせに」って。
……ああ、さっきも言ってしまったか。
まあ、それは、子供の頃に言ったのとはまたちょっと違う理由で……つまりは、さっき僕が思ってたような理由なんだけど。
でも、決してそれだけじゃなくて――。
枕の中の氷がカラコロと音を立て、傾いたルルーシュの顔が僕の方へと向いてくる。
「う、ん……っ」
魘されているようなその声に、ルルーシュが目覚めたのかと思った僕はハッと我に返った。眉を寄せたルルーシュが、寝苦しそうに首を捩らせながらこくりと喉を鳴らしている。
喉が渇いているんだろうに、起きられないのか。
どうしようかな。本当は早く薬を飲ませた方がいいんだけど、せっかく眠っているのにわざわざ起こすのも可哀相な気がするし……。
目覚めるのを待つべきか、それとも薬を飲ませるために無理にでも起こすべきか。
そう思いながら何気なく室内を見回した僕の目に留まった物は、机の上に置かれたルルーシュのパソコンだった。
「――――」
僕は一体、何を考えている?
止まったまま動かない目を無理やりパソコンから引き剥がし、僕は安らかな寝息を立てているルルーシュへと視線を移し変えた。
邪気の欠片もない綺麗な寝顔。
すっと通った鼻梁に、抜けるような白い肌。ルルーシュは男だと解っているけど、僕はつい見とれてしまう。
同性だったとしても綺麗なものは綺麗だし、美人は美人だ。勿論、ルルーシュにそんなこと言おうものならこっぴどく怒られてしまうんだろうけど。
いっそ場違いなほどどうでもいいことを考えながら、僕はルルーシュを見つめていた。
不意に、チクリと胸が痛む。
『軍の助けは借りない!』
ついさっきルルーシュが叫んだ台詞が、耳の奥でまだ尾を引いていた。
やっぱり君は、僕が軍属でいることを嫌がっているんだよな。普段僕の前では口に出さないようにしてるってことも、僕は知っている。
君が今まであの国にされてきたことを思えば当然だろうけど、君は今でも、具合の悪さも忘れて飛び起きるほどにブリタニアを嫌ってて、憎んでいるんだろう。
それこそ、容易く口になんか出せないほどに強く、激しく。そして根深く。
僕の中で、つい数日前、ルルーシュに言われた言葉が蘇る。
『シズオカ工場か?』
借りていた数学のノートを返しに来た時、明日から出張だと言った僕にルルーシュが訊いてきた言葉だ。
どうして知っている? 僕はあの時そう思った。
剣の取れたルルーシュの寝顔をじっと見つめながら、僕は心の中でルルーシュに問いかける。
ルルーシュ。……君は、軍のことを調べているのか?
――何のために?
あのパソコンの中身を覗いてみれば、少しはわかるんだろうか。再会してから、昔よりもずっと秘密主義になった君の秘密が……。
「彼女を心配させちゃうよ、ルルーシュ」
頬にかかった艶やかな黒髪を掃い除けてやりながら「早く治さないとな」と心の中で呼びかけたところで、僕はまたも気付く。
緑色の、長い髪をしているらしい、ルルーシュの彼女。
そして、ナリタに現れた拘束衣の女。
その女の長い髪の色も、確か緑色だった、と――。
突然よぎった自分の考えに、僕はギクリと心臓を縮ませた。
まさかな。ありえない。僕は自分にそう言い聞かせながら、無理やり思考を断ち切るように目を閉じる。
……ルルーシュ、ごめんな。僕は、君に嘘を吐いている。
技術部所属だと言ったのは確かに嘘じゃないけれど、あのランスロットに乗っているのが本当は僕なんだと知ったら、君は一体どう思うだろうか。
君が秘密主義に徹しているのも、きっと僕のせいなんだろう。
僕に一線引かれている。君は、本当はそう思ってる。
僕は知っているんだ、ルルーシュ。
君が時々、酷く寂しそうな目で僕を見つめているってこと。
君は僕に気付かれていないと思ってるかもしれないけど……馬鹿だな、ルルーシュ。気付かないわけないだろう?
君は意地っ張りだから素っ気無く振舞っているけど、本当は、僕の存在が遠くなってしまったように思えて寂しいんじゃないのか?
昔の俺なら迷うことなく、何よりも誰よりも、まず友達の気持ちを優先しただろう。
だけど今の僕は、昔の俺と同じであっちゃいけない。個人的感情よりも、組織の論理を優先しなくちゃいけない。
――いや、そう出来る人間になっていなければならないんだ。
君は尋ねてこようとしないけど、敢えてその話題には触れないようにしてくれているけど、僕がどうして軍に入ったのか、本当は疑問に思っている。
もしかすると、裏切られたような気持ちにさえなっているのかもしれないな。
……でも、その理由について君に話してやることは、絶対に出来ない。
だから、たとえ君が僕に何か言えない秘密を隠しているのだとしても、僕にそれを責める権利は無いんだ。
だって、僕も君に対して、どうしても隠しておかなければならない秘密を抱えているんだから……。
ルルーシュ。
君が好きだよ。……大好きだ。
でも、遠慮がちな気持ちを隠しながら誘ってきては、僕がここへ来る度に喜ぶ君を見て、僕は少しだけ不安になる。
そして、苛々するんだ。七年前と全く同じように接してこようとする君に。
酷いよな。『俺』は。
こんなにも君のことが大好きなのに。別に、遠ざけたいなんて思ってる訳じゃないのに。
もう二度と、君に会うことは出来ないと思っていた。だから僕は、君との再会を果たしてから一つだけ心に決めたことがある。
今の僕が置かれている状況は、とても特殊だ。
僕を君と同じ学校に入学させてくれた人は、誰だと思う?
ユーフェミア皇女殿下なんだよ。――君の、腹違いの妹だ。
元々ただの一平卒でしかなかった僕の周りには、今や考えられないほど高位の人たちが集っている。……だから僕は、上を目指すよ。中からブリタニアを変えていくために。
そしていつかこの国を取り戻して、君と……君たち兄妹にとっても住みやすい、命を脅かされる危険のない平和な国にしていくんだ。
……僕は、いいんだ。
たとえ裏切り者と呼ばれても、人殺しだと罵られたとしても。――だって僕は、元々罪人だから。
だからね、ルルーシュ。
この願いが叶う日が、いつになるかは解らない。もしかしたら、僕や君が生きているうちには果たせない夢なのかもしれない。
それでも、見守っていて欲しい。
守るから。必ず。
いつかきっと、君たちが幸せに暮らしていける世界を僕が創るから。
だから、それまで待っていて欲しい。早まったことだけはしないでほしい。
ゼロなんかに惹かれたりしないで。危ないことには踏み切ろうとしないで。……どうか、思い切らないで。
頼むから、お願いだから、どうか大人しくしていてくれ。
――そして、絶対『こっち側』には来ないで欲しい。
『まさか。ナナリーを泣かせるようなことはしないよ』
ルルーシュ。
僕はその言葉、信じてもいいんだよな?
……信じているから。
だから、裏切らないで欲しい。絶対に。――僕の、この想いを。
スポーツ飲料にミネラルウォーター。それから薬もちゃんと用意した。
きっと沢山汗をかくだろうから、念のためにバスタオルを一枚と、換えのシーツも一枚。……あと、洗面器。
さっき胸をさすっていたから、もしかしたら吐き気も少しあるのかもしれないし。
とりあえずこれでいいかな、と荷物をまとめた僕は、バスケットの中身を一つ一つ確認しながらルルーシュの部屋へと続く階段をゆっくりと上っていく。
汗、かいているといいけど。熱を下げるためには発汗させなきゃいけないから、まずは水分を沢山摂らせた方がいい。
……でも、飲めるだろうか。ルルーシュまだ起きてるかな。
とは言っても、寝ていなきゃ駄目なのも事実なんだけど。
僕は少し反省していた。さっきはちょっと言い過ぎた。本当に具合が悪そうだったのに。
人は心配すると怒るって、本当だったんだな。
ルルーシュが何を差し置いてもナナリーのことを最優先に考えるのは、昔からお決まりのパターンだ。いつもそれで無理ばかりして、自分のことを全て棚上げにしてでも常に妹のことばかり考えて。
彼らの境遇を思えば、それも無理からぬことなのかもしれない。ただでさえ、たった二人きりの兄妹だ。
――でも、と僕は敢えて思う。
何かと不安定なルルーシュを陰日向となって支えているのは、本当はナナリーの方なんじゃないのかと。
昔は違っていたけど、今のナナリーは、体のことさえ無ければルルーシュと離れて暮らすことだって出来るのかもしれない。
離れたが最後、生きられなくなるのはルルーシュだ。
だから、僕の目にはこう映る。
本当はナナリーのためというよりも、ルルーシュが自分自身のために彼女を過保護にしているのだと。
ルルーシュにとってたった一人の肉親である妹が、決して彼自身から離れていこうとしないように――。
部屋に入ると、少しだけ空気が篭っていた。
僕はドアの横にあるエアーコンディショナーの換気スイッチを押してから、ベッドの方へと歩み寄る。
ルルーシュは苦しげに胸を上下させながら眠っていた。薄く開いた唇から漏れ出す息が、少しだけ荒い。
足元を見回した僕はちょっと考えてから、手持ちのバスケットをベッドサイドに置かれた椅子の横に置いた。
暑くて寝返りでも打ったんだろうか。ルルーシュを見ると、首元まで覆った筈の布団が乱れて肩が露出している。
肌蹴たシャツの襟ぐりからそっと手を差し入れると、ルルーシュの肌はうっすらと湿り気を帯びていた。
……良かった。汗かいてる。
ほっと一息ついた僕は、床に置いたバスケットの中から濡れタオルを取り出し、汗で貼りついたルルーシュの前髪をかき分けてから丁寧に額を拭った。掌で湿り気を軽く抑えてから冷却シートのフィルムを剥がし、落ちてくる髪を抑えながら額にぺとりと貼り付けてやる。
「……っ」
すると、ルルーシュの瞼がピクリと動いた。きっと冷たかったんだろう。
目を覚ますかと思ったけれど、ルルーシュの瞼は開かない。一度緩やかに息を吐き出したその後は、心地よさそうな顔ですうすうと穏やかな寝息を立てている。
水分も取らせたいし、熱だって計ってやりたい。それに、薬も飲ませなきゃ。
あれもこれもと忙しなく考える中、僕の手が唐突にはた、と止まった。
……放っておけとか言われたって、こんなにも頼りないのに出来るわけないじゃないか、そんなこと。
意地っ張りだし、頑固だし、全くもって目が離せないような面倒くさい性格してるくせして、いつも憎まれ口ばっかり叩くんだから。
時々、本気で腹が立つよ。ルルーシュ。
子供の頃から思ってたけど、ホント、君って可愛くないよな。ちょっとは素直になってくれ。いつもこうやって、何かと僕を巻き込んでは困らせてばかりいるくせに。
ルルーシュはあくどくなった。再会してからは特に。
真面目に来いと言っているのに、学校には全然来ないし。それも、来ている時にまで平然と授業をサボろうとする。
出てたら出てたで寝ているし、裏社会の賭けチェスなんて非合法のギャンブルには手を出すし。
不良の元皇族なんて、聞いたことがないよ。
しかも、逃げたと気付いた僕が追いかけてくると解っていてサボろうとするところが特にあくどい。
君、絶対に楽しんでるだろ。
生徒会の皆も、ルルーシュのことで何か困ったことがあったら、とりあえず僕に訊けばいいと思ってる。
言っておくけど、僕はルルーシュの友達ではあってもお世話係じゃない。幾ら幼馴染とはいえ、別に四六時中一緒にいるわけじゃないんだから、何かある度にルルーシュのことを僕に訊かれても困るよ。
……いや、悪いのは皆じゃない。ルルーシュだ。
大体、普段から出席日数少ないくせして、どうして学校来てる時にまで屋上で電話なんかかけているんだ? 一体、どこの誰と話してるんだよ?
それに、気になることもある。
出先から電話をかけてくる時、ルルーシュがその所在について話してくれたことは一度もない。
最近は特に、その秘密主義ぶりに拍車がかかってる。一体どこから電話をかけてきているんだろう? それに、昼も夜も出掛けているようだけど、君はいつもどこで何をやっている?
少なくとも、賭けチェスなんかじゃないよな。
だって、リヴァルから聞いたんだ。「最近付き合いが悪い」って――。
確かに、ルルーシュは僕に対して「一緒に授業をエスケープしよう」とは一言も言っていないし、面倒を見てくれと頼んできたことだって一度もない。
……そう。結局、巻き込まれることを自主的に選んでるのは、いつも僕だ。
選んでるんじゃなくて、本当は選ばされている。多分そう言った方が正しい。
ルルーシュはいつも僕を惑わせる。――今日だって、君は無意識に僕を頼ってた。
君は、本当は知っているんだ。どういう時にどうすれば僕が動くのかちゃんと知っていて、いつも好き放題に振舞ってから「後のことは任せた」みたいに頼ってくる。すごく勝手だ。
僕はその度に「あ、また!」って思って、そして何だかんだで君に従ってしまう。
不本意ながらも、必ず面倒を見てしまうんだ。まるで身に染み付いた習性みたいに。
別に、それが嫌って訳じゃない僕も大概だけど……君は魔性だよ。時折、僕を弄んでいるのかと思うことさえある。
ずるいよ、ルルーシュ。
僕は普通の友達でいたいのに、君はいつだってそうはさせてくれない。
自分が僕を頼ってるってことについては絶対認めないくせに、君は解っているんだ。君を放っておくことの出来ない僕の気持ちを。
そして振り回す。かき乱すんだ。いつも。
……やっぱり、君は僕に甘えてる。
どう考えても、遠まわしに構われたがっているとしか思えない。
今日だって――。
と、そこまで思いかけた僕は、それ以上考えるのをやめておいた。だって、こうして挙げ出したらきりが無いから。
はあっと大きなため息をついた僕は、力無く横たわるルルーシュをまんじりともせず見つめた。
無茶ばっかりするんだから。
この分だと、しばらくは目を覚ましそうに無いな……。だったら、首にも冷却シートを貼った方がいいか。
あ。でも、その前に氷枕を当ててやらなきゃ。熱、少しは下がったかな。
確かめるために触れたルルーシュの首へと目をやった僕は、ふと気付く。
……細いなぁ、ほんとに。ちょっと力を入れただけで折れてしまいそうだ。
口を開けば毒ばかり吐くくせに、眠っているルルーシュの顔は性格とは真逆と言ってもいいくらいにあどけなくて、どこか無防備で、いっそたおやかにさえ見えてきて。
なんだか、妙に保護欲を誘われてしまって本当に困る。
全く、顔が良いって得だよ。
性格はひねくれてるくせして、寝顔は可愛いなんてちょっと反則だ。
いつも思うことだけど、とにかく放っておけない。まるで世話の焼ける弟のような、それでいて、僕より年上なのに手のかかる兄のような……。
そして、時として母親のような愛情深さで接してくる、僕の大切な友達。
――それなのに、そんな君と一緒にいる時の僕は、本当はちょっとだけ複雑だ。
普段ひんやりと冷たいルルーシュの体温は、今は子供のように高くなっている。ルルーシュの首から手を離した僕は、持ち上げた後頭部を支えながら枕を引き抜き、持ってきた氷枕と入れ替えた。
「ん……」
ぐったりしたまま、ルルーシュが小さく呻く。
僕は長い睫が震えているさまを見下ろしながら、これは学園の女の子たちがこぞって騒ぎ立てるのも無理はないな、となんとなく思った。
ルルーシュは昔から並外れて人目を引く姿の良い子供ではあったけど、成長してからは容姿の良さにも磨きがかかって、とんでもない美人になっていた。
君にとっては、目立つのなんか困ることでしかない筈なのにね。
まるでビスクドールのように整ったルルーシュの寝顔を見下ろしながら、僕は思わず苦笑した。
……それにしても、可愛いなぁ。こうして静かに眠っていると、本当にお人形さんみたいだ。
君はもう、ずっとそうやって眠ってたら? その方が、僕もよっぽど安心出来るんだけど……。
引き上げた布団を肩の上まで被せてから椅子に腰掛けた僕は、心の中でルルーシュに語りかけながら思い出す。
かなり苛めていたなぁ、小さい頃は。何かというと、すぐ「男のくせに」って。
……ああ、さっきも言ってしまったか。
まあ、それは、子供の頃に言ったのとはまたちょっと違う理由で……つまりは、さっき僕が思ってたような理由なんだけど。
でも、決してそれだけじゃなくて――。
枕の中の氷がカラコロと音を立て、傾いたルルーシュの顔が僕の方へと向いてくる。
「う、ん……っ」
魘されているようなその声に、ルルーシュが目覚めたのかと思った僕はハッと我に返った。眉を寄せたルルーシュが、寝苦しそうに首を捩らせながらこくりと喉を鳴らしている。
喉が渇いているんだろうに、起きられないのか。
どうしようかな。本当は早く薬を飲ませた方がいいんだけど、せっかく眠っているのにわざわざ起こすのも可哀相な気がするし……。
目覚めるのを待つべきか、それとも薬を飲ませるために無理にでも起こすべきか。
そう思いながら何気なく室内を見回した僕の目に留まった物は、机の上に置かれたルルーシュのパソコンだった。
「――――」
僕は一体、何を考えている?
止まったまま動かない目を無理やりパソコンから引き剥がし、僕は安らかな寝息を立てているルルーシュへと視線を移し変えた。
邪気の欠片もない綺麗な寝顔。
すっと通った鼻梁に、抜けるような白い肌。ルルーシュは男だと解っているけど、僕はつい見とれてしまう。
同性だったとしても綺麗なものは綺麗だし、美人は美人だ。勿論、ルルーシュにそんなこと言おうものならこっぴどく怒られてしまうんだろうけど。
いっそ場違いなほどどうでもいいことを考えながら、僕はルルーシュを見つめていた。
不意に、チクリと胸が痛む。
『軍の助けは借りない!』
ついさっきルルーシュが叫んだ台詞が、耳の奥でまだ尾を引いていた。
やっぱり君は、僕が軍属でいることを嫌がっているんだよな。普段僕の前では口に出さないようにしてるってことも、僕は知っている。
君が今まであの国にされてきたことを思えば当然だろうけど、君は今でも、具合の悪さも忘れて飛び起きるほどにブリタニアを嫌ってて、憎んでいるんだろう。
それこそ、容易く口になんか出せないほどに強く、激しく。そして根深く。
僕の中で、つい数日前、ルルーシュに言われた言葉が蘇る。
『シズオカ工場か?』
借りていた数学のノートを返しに来た時、明日から出張だと言った僕にルルーシュが訊いてきた言葉だ。
どうして知っている? 僕はあの時そう思った。
剣の取れたルルーシュの寝顔をじっと見つめながら、僕は心の中でルルーシュに問いかける。
ルルーシュ。……君は、軍のことを調べているのか?
――何のために?
あのパソコンの中身を覗いてみれば、少しはわかるんだろうか。再会してから、昔よりもずっと秘密主義になった君の秘密が……。
「彼女を心配させちゃうよ、ルルーシュ」
頬にかかった艶やかな黒髪を掃い除けてやりながら「早く治さないとな」と心の中で呼びかけたところで、僕はまたも気付く。
緑色の、長い髪をしているらしい、ルルーシュの彼女。
そして、ナリタに現れた拘束衣の女。
その女の長い髪の色も、確か緑色だった、と――。
突然よぎった自分の考えに、僕はギクリと心臓を縮ませた。
まさかな。ありえない。僕は自分にそう言い聞かせながら、無理やり思考を断ち切るように目を閉じる。
……ルルーシュ、ごめんな。僕は、君に嘘を吐いている。
技術部所属だと言ったのは確かに嘘じゃないけれど、あのランスロットに乗っているのが本当は僕なんだと知ったら、君は一体どう思うだろうか。
君が秘密主義に徹しているのも、きっと僕のせいなんだろう。
僕に一線引かれている。君は、本当はそう思ってる。
僕は知っているんだ、ルルーシュ。
君が時々、酷く寂しそうな目で僕を見つめているってこと。
君は僕に気付かれていないと思ってるかもしれないけど……馬鹿だな、ルルーシュ。気付かないわけないだろう?
君は意地っ張りだから素っ気無く振舞っているけど、本当は、僕の存在が遠くなってしまったように思えて寂しいんじゃないのか?
昔の俺なら迷うことなく、何よりも誰よりも、まず友達の気持ちを優先しただろう。
だけど今の僕は、昔の俺と同じであっちゃいけない。個人的感情よりも、組織の論理を優先しなくちゃいけない。
――いや、そう出来る人間になっていなければならないんだ。
君は尋ねてこようとしないけど、敢えてその話題には触れないようにしてくれているけど、僕がどうして軍に入ったのか、本当は疑問に思っている。
もしかすると、裏切られたような気持ちにさえなっているのかもしれないな。
……でも、その理由について君に話してやることは、絶対に出来ない。
だから、たとえ君が僕に何か言えない秘密を隠しているのだとしても、僕にそれを責める権利は無いんだ。
だって、僕も君に対して、どうしても隠しておかなければならない秘密を抱えているんだから……。
ルルーシュ。
君が好きだよ。……大好きだ。
でも、遠慮がちな気持ちを隠しながら誘ってきては、僕がここへ来る度に喜ぶ君を見て、僕は少しだけ不安になる。
そして、苛々するんだ。七年前と全く同じように接してこようとする君に。
酷いよな。『俺』は。
こんなにも君のことが大好きなのに。別に、遠ざけたいなんて思ってる訳じゃないのに。
もう二度と、君に会うことは出来ないと思っていた。だから僕は、君との再会を果たしてから一つだけ心に決めたことがある。
今の僕が置かれている状況は、とても特殊だ。
僕を君と同じ学校に入学させてくれた人は、誰だと思う?
ユーフェミア皇女殿下なんだよ。――君の、腹違いの妹だ。
元々ただの一平卒でしかなかった僕の周りには、今や考えられないほど高位の人たちが集っている。……だから僕は、上を目指すよ。中からブリタニアを変えていくために。
そしていつかこの国を取り戻して、君と……君たち兄妹にとっても住みやすい、命を脅かされる危険のない平和な国にしていくんだ。
……僕は、いいんだ。
たとえ裏切り者と呼ばれても、人殺しだと罵られたとしても。――だって僕は、元々罪人だから。
だからね、ルルーシュ。
この願いが叶う日が、いつになるかは解らない。もしかしたら、僕や君が生きているうちには果たせない夢なのかもしれない。
それでも、見守っていて欲しい。
守るから。必ず。
いつかきっと、君たちが幸せに暮らしていける世界を僕が創るから。
だから、それまで待っていて欲しい。早まったことだけはしないでほしい。
ゼロなんかに惹かれたりしないで。危ないことには踏み切ろうとしないで。……どうか、思い切らないで。
頼むから、お願いだから、どうか大人しくしていてくれ。
――そして、絶対『こっち側』には来ないで欲しい。
『まさか。ナナリーを泣かせるようなことはしないよ』
ルルーシュ。
僕はその言葉、信じてもいいんだよな?
……信じているから。
だから、裏切らないで欲しい。絶対に。――僕の、この想いを。